当麻の記憶#7 宇園別地区の昔話
「この辺りの風景は子どもの頃からあまり変わっていないんだよ」と話すのは、宇園別小学校のすぐ近くに住む柴田良一さん(昭和16年4月15日生)。柴田さんの父親は山形県出身。当時は“長男が家を継ぐ”ことが当たり前だったため次男だった良一さんのお父さんは宇園別のこの地に移住しました。ですので良一さんは宇園別生まれ、宇園別育ちとなります。
開拓当時、当麻に住む人が永山まで出るための要所であったことから栄えた宇園別地区。多くの店が軒を連ねていましたが、明治39年と明治42年の大火により消失してしまいました(これがきっかけで施設消防組が宇園別地区に発足し、当麻消防組織の起源となっています)。その後少しづつ復興が進んだのでしょう。柴田さんの幼い頃には、現在住宅地となっているアカシヤ団地付近の国道沿いに店舗や酒屋、魚屋、豆腐屋などが並びにぎやかだったそうです。
当時、宇園別小学校には、当麻中学校宇園別分校(中学2年まで)も置かれ、1クラスに30~40人の生徒が在籍していました。良一さんが通ったのは初代校舎。現在のもみじ団地の場所にありました。校舎は昭和32年、火事により体育館を残し消失。同年、同じ場所に2代目校舎が建築され、3代目となる現校舎は昭和57年に現在の場所に建築されました。
柴田さんが子どもの頃は給食の無い時代なので弁当持参で登校。冬は弁当を温めるために全員がストーブの周辺にお弁当を並べていましたが、中にはたくあんを入れている人もいて、その匂いが教室の中に充満していたと当時を振り返ります。また、給食はありませんでしたが、地域のお母さんたちは昼食前に子どもたちのために味噌や野菜を持ち寄り、学校でお味噌汁を作りふるまっていたそうです。
今のような車社会ではありませんでしたが、国道39号線にはほこりをまき上げながら走るバスが往来していました。子どもの頃の遊び場は国道から少し離れた石狩川だったそうです。河川敷には山ブドウやコクワの実がびっしりなっていました。夏には、男の子は裸になって川に飛び込み、首だけ水面から出して川下りをしたそうです。女の子は男の子の衣服を持って土手を追いかけたのだとか…。石狩川には当時、鮭が昇り、カジカが多く採れました。子どもも大人もみんなが集まりカジカの入った鍋を楽しんだそうです。
山が無い宇園別地区。子どもたちのおじいちゃんがイタヤカエデの木で作ってくれたスキーを担いで向かうのは当麻神社(現在の旧神社跡公園)がある小高い丘でした。大きくなると射的山まで足を延ばしジャンプ台などでスキーを楽しんだそうです。