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当麻の記憶#9 中央地区の記憶その1

 当麻町中央7区には「当麻0丁目」というバス停が存在します。“0丁目”という表記は全国的にも珍しく、テレビなどでも取り上げられたことも。な
ぜそういう表記になったのか特に残されていませんが、以前、広報企画でこの地区にお住まいの方にお話を聞き調べていく中で、国道39号線と1丁目の間にできた1番町道路の角にバス停を設置したが、すでに1丁目、2丁目…と表記されたバス停がつながっていたため、これより若い数字が無く0丁目になったのでは?という結論を見出しました。この地域に住む菅野光仁さん(昭和23年12月23日生)も、物心がついた頃から0丁目と呼んでいて呼び名には特に違和感を感じていなかったと話します。
 いわゆる“団塊世代”の菅野さん。通った校舎は当麻小学校、当麻中学校ともに先代の赤レンガ校舎ですが、当麻小学校では1学年で250人以上、1クラスに60人ほどの生徒が在籍していました。当麻中学校になると宇園別、伊香牛、北星、開明、緑郷と他の地域からも生徒が集まってくるので、同級生は450人程まで増えたそうです。1クラス約50人が9クラスまで、他の学年も7~8クラスあり、昭和27年に新築された校舎は、昭和33、35、36年に増築を繰り返しましたが、教室数が足りなく菅野さんが1年生の時は工作室を教室に使っていたそうです。

赤レンガ校舎時代の当麻中学校

 お寺が3件並んでいる中央7区。ここに紙芝居が店開きをすることがあり、5円で飴を買って、紙芝居を見ていたと菅野さんは当時を振り返ります。また地域にドン菓子を販売する“ドン屋”さんが来ることもあり、米や豆、トウキビを持ち込み、できあがったドン菓子に水あめを入れて食べていたそうです。

お寺が3件並ぶ中央7区

菅野さんは体が弱かった親の家業を継ぐため中学校卒業後、そのまま農業に従事しました。当時はさまざまな事情により高等学校に行けない子どもが
いたことから、教育委員会では互楽館に「高等公民学校」を開設して、若者の教育の場としていました。菅野さんも仕事をしながら週1回、4年間通い勉強を学んだそうです。
 当麻町の行政区はそれぞれが数字順に隣り合わせに位置していますが、中央7区は中央6区に隣接していません。菅野さんとのお話の中で「なぜだろ
う? 」ということになり調べてみました。今の行政区は昭和28年に設置されたものが基本になっています。

現在の行政区配列(昭和28年)

もともと市街地区を囲むように中央地区が配置されていましたが、昭和28年の設置の際、中央地区だった当麻山の麓の地区が市街6区になりました。このため中央6区と中央7区が分断されたような形になったのではないかと思われます。

以前の行政区配列(市街6区が中央6区の一部でした)