断捨離って。(記憶と記録その1)
断捨離をしたいのに、思い出の品をなかなか捨てることができない人がいる。
たとえば写真。たとえば手紙。
写真、手紙、洋服、旅行みやげ・・・、そのほかなんでも、モノとして残り、捨てられないものは、記憶をつなぎ止めようとするかけらだと思う。
詩人、長田弘は、「記憶のつくり方」のあとがきにこう書いた。
「記憶は過去のものではない。すでに過ぎ去ったもののことでもなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌になってきたものは、記憶だ。」
と。
記憶は、その人の人生にとっての、何かのひっかかり。
なんか知らんけどひっかかり、流れ去らずに自分の中のどこかにとどまった。
捨てられない写真や手紙のなかには、そのひっかかりが何かというヒントが隠されているのかもしれない。
そのひっかかっているのがなんなのか、捨てられない「モノ」を手にしながら、自分の心の中にはいってじっくり観察してみることは、ただやみくもに何もかも捨ててしまうよりも、大切なことのような気がする。
もちろん、「記憶」という、あやうくぼんやりとしてつかみどころのないものだけが自分の中に残れば、それだけでもひっかかりを吟味できるという人は、目の前に実在する「モノという記憶のかけら」をどんどん捨てればよいのだろう。
どちらにせよ、ひっかかった記憶をおろそかにすることは、その人の人生にとってプラスではないような気がする。
「モノ」を捨てても、流れ去らない記憶というものもある。
そこまでひっかかっている、その何かが、なんであるのかを、わたしは知りたいと思うから、今日も「思い出の品」と向き合い、うんうん言いながら、断捨離に励む。
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