全て壊して、そして助かりたい

 「助けて」とか「出来ません」という言葉を上手く発することが出来ない。限界が近いと薄々感じているのに、それを認めることが怖くて自分でも気が付かないふりをする。無理をしてでも「普通」のふりをし続ける。頑張り続ける。

 そして全部がどうでも良くなる。

 一年半前、自殺をしようとしたのもそれが理由のひとつだ。死にたいと思っていたのは嘘じゃないけれど、どこかに、こんなに苦しんでいるのだと気づいて欲しいという思いがあった。もう頑張れないから、許して欲しいと。
 それは半分くらいは成功して、半分くらいは失敗した、と思う。主治医は治療方針を見直したりカウンセリングを勧めてくれた。母親も事態の深刻さに改めて気がついたのだと思う。
 けれど、大学は休まず行き続けて、なんなら未遂したその日も何食わぬ顔で実験しに行き、普通を装っていた。何も変わらなかった、という諦めみたいなものもあった。本当はもっと大袈裟になって入院でもしたかったのだ。そうしたら、わたしが大変だってみんな理解してくれると思った。

 とにかく、何となく病状は悪そうだと理解はされたまま、それ以外は変わることなく時が進んでいった。だからできるだけ頑張った。いや、出来ませんと言えなかったから、やらざるを得なかっただけなのかもしれない。でも少しは持ち直していたし、頑張りたいというのも嘘ではない。

 息つく暇もなく、勉強に研究にと追われていった。春休みや夏休みもあまり休めなかった。そこに加わる試験のプレッシャー、というより、休めなかったことによる疲労の蓄積のせいでプレッシャーが途方もなく大きく見えるのだろう。いつもなら夏には少し回復するのに、酷暑も相まってか、抑うつ気分はずっとそのままだった。

 それでもう、自分としては再び明らかに限界だったのだけれど、でもそれを言い出す勇気はなかった。助けを求めることで他の人に邪険にされていっているのにも気がついたからだ。邪険にはしていないと思うけれど、ちょっと迷惑だとは思っているだろう。
 それに、うつ病だって、外に出れるくらいの日は本当に普通の人にしか見えない。起き上がって支度をして外に出て電車に乗って、なんて、割と調子がいい日なのだ。そんな日にだけ人と会う。そうしたら、みんなは何だ元気じゃないかと思うのは当たり前かもしれない。

 だから、本当はそんなことないんだと、なにひとつ大丈夫ではなくて、病気なんだと、どうにかして示したくなる。今度は大事な試験を休んだ。前日までは行くつもりだった。でも、朝起きて、ああもういいやと思ってしまった。全部他人事になって、誰かが何かをてきとうに処理して、留年でも何でもしたらいいやと思った。

 それがどう転ぶのかは分からない。どうしたいのか分からないまま、再びリカバリしようと動いている。それがいいのか悪いのか分からない。カウンセラーさんには休むのもいいかもしれないねと言われた。その方が良いとは思う。けれど、たまに普通になれてしまう自分が、ついうっかり人生の駒を進めてしまう時があるのだ。すごろくの一回休みを器用に避けていくように。

 今度は一回休みを引き当てたい。自分の意思でそこに立ち止まることが出来ないほどに弱っているから。誰かが止まるように、神様でもサイコロでもいいから、そう仕向けてくれますように。

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