こころに関わるお仕事のひととSNS

 この頃、Twitterに精神科医や心理師/心理士の方のツイートがよく流れてくる。このひとの発言はいいなあと思ってフォローした精神科医のアカウントから関連しておすすめに流れてくるのだろう。

 そのおすすめに流れてくるひとは、わたしがフォローしているひとではない。そしてその呟きがなんとなく疲れる。
 患者さんやクライエントをネタとして扱うひとや、良く怒っているひと、特に反射的に怒っているひと、党派性の強すぎる政治的ツイートをするひと。そんなひとが目に入っては、すこしがっかりする。

 とにかくおすすめ機能が悪いのだとは思う。嫌なら見なければいいのだけれど、そのつもりがなくても流れてくるのだから。

 ということは前提にしつつ、精神科医の方や心理職の方の呟きをどう感じているかを書きたいと思う。

 Tips的なことを紹介しているひとは、それなりに役に立つ情報を流してくれる。けれどもう何度も聞いたよとか、それわたしには効果ないんだよなあとか、そもそも国家資格ではないカウンセラーの方なら間違ったことを言っていたりする。フォロワー稼ぎなのかな、と思うとああ所詮金と名誉なのねと思ってしまう。

 内輪ネタで盛り上がっているひと、これはお医者さんに多いような気もするけれど、最近どうなのかなと思うようになった。正直初めは面白がって見ていた時期もある。けれど自分が病気になって、色んなところで「出来ない」とか「普通と違う」と感じることが増えて、どこかでそうやって笑われているのかなあと思うと悲しくなってくる。

 すこし過激なツイート(政治のことや気に入らない同僚の悪口とか)は、もっと心が痛い。こんなことを言うひとならもしかしたらわたしの心も傷つけるのかもしれない。もしこのアカウントがわたしの主治医や心理士さんだったら?そうでなくとも”いいね”をしていたら?やっぱり怖くなる。こんなひとばかりなら病気なんか治るわけないよと思ってしまう。

 安心して見ていられる方は、ある種の「キャラ」を作っているひとなのかもしれない。ある事柄についての視点からしかツイートをしない。あるいはキャラに従った言葉しか呟かない。そういうひとに安心する。ある意味本当に「キャラクター」と感じていて、人間味を感じさせながらも実在感のなさも同時に醸し出しているからかもしれない。
 (ここで具体名を出して申し訳ないけれど、「仮称 アヤナミレイ」さんはそれがものすごく上手いアカウント運営をされていると思う)

 専門職の方にとって、肩書を出してTwitterアカウントを運営するというのはどんな利点があるのだろう。個人のカウンセリングルームやクリニックなら集客という目的があるだろう。それ以外でも似た職種のひとたちと繋がり勉強などに役立てることができると思う。あるいは一般向けに、病気のことなどについて分かりやすく説明するとか。逆に言うと、肩書を出すということは、そういったアカウント運営を求められてしまうということかもしれない。個人の意見なのは分かるけれど、やっぱりその職業に対するイメージがついてしまうから。

 内輪ネタ、それも悪口めいたものなら、せめて鍵垢でやろうよと思ってしまう。何万人もの人に見られて嬉しいのだろうか、と思ってしまうのだ。誰だって愚痴は言いたい、でも言っていい相手や場面は選ばないといけない。(ODした患者を助けたくないと呟いたいつかの医療職の方を思い出す)

 自分が精神科医の先生や心理士の先生に関わって、とても助けられていると思うからこそ、そういった肩書を公開しているひとの呟きが気になるのだろう。病気を治したい、このひとたちを信じよう、と思っている時にあれ?という言葉を見てしまうから。

 もし別の職業の方にとてもお世話になっていると思えば、そういう肩書を出しているひとが気になるのだろう。特に日本では匿名で使われるSNSで敢えて肩書を出している、ということに何らかの意味を感じてしまう。

 そういえば、学生は学校からSNSの使い方について何度か注意喚起される。色々な事件や騒ぎが起きているからだろう。それなのに、職業を持つひとが肩書を出して迂闊な呟きをしているのに違和感を覚える、というのもあるかもしれない。それって世界中のひとが見てますよ、と。

 これは何度か書いた、子どものことを沢山呟く親に対する感情と同じだ。それで大丈夫なんですか?傷つくひと、困るひとはいませんか?と。

 自分だって安全なSNSの使い方をしている訳じゃない。ここにだって色んなことを書いている。でもただひとりの人間としていたい。(でも、精神疾患患者としてのアイデンティティは結構アピールしているね)

 人間はどうしたって、自分に対してでさえも枠とか肩書とか偏見が拭えないのだろう。それを忘れないように、自分がどんな属性をアピールしながら話をしているのか、それで困るひとたちがいるだろうかと考えながら言葉を使わなければならない。せめて自分はできる範囲でやろう、と他のひとたちを見て思う。


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