言及は しない触れない目に入れない

SNS、特にTwitterみたいなミニブログ形式のものでは、“言及”をしないように気をつけている。

言及、というのは、タイムラインによく流れてくれる話題に触れること。ニュース、揉め事、炎上の類、それから趣味の話まで。基本的にネガティブなことだが、そうとは限らない。

最近、言及を戒める箍が外れてきているような気がする。それで再び気をつけるためにここに文章を残すことにした。

どうして言及をしないようにしているかというと、疲れるから。もっと言うと、魂が穢れる気がする。みんなが口にする話題に乗っかり、自分の意見らしき何かを言い、それでいいねでも貰えば承認欲求が満たされるかもしれない。その一連が醜く思える。特に、誰かを批判するとき。その批判は人を死なせるかもしれない。しかしSNSでは発信が容易すぎる。考える前に文章を書き、送信し、いいねとリポストをする。巡り巡って、誰かが死ぬ。そこまでいかなくとも、傷つく人がいる。

わたし自身に対して、わたしはさらに、賢しらになにかを語っているような気がしている。ここに書いていることもそうかもしれないが、何かを世の中に出す時、わたしはすごい、わたしは賢い、それを認めてほしい、という気持ちがあるような気がする。そしてそれが気持ち悪い。そういう部分をできるだけ出さない方がいいと思う。自慢されて嬉しい人間はあまりいない。

SNSは自分のためにやるものかもしれないが、そこには他人が存在している。本当に自分のためなら日記帳でもスマホのメモでも他人に見えないところに書いて残したらいい。そうしないのは、誰かに見てほしいとどこかで思っているから。

しかしnoteなんかの、ブログ形式のSNSでは思ったことを自由に書こうと思っている。その主な理由は、noteの中身がいきなり見えることがないから。読む人は、まずタイトルを見て、もしかしたら画像や作者やいいね数を見てから、読むかどうか決める。ある程度長いから、合わないと思ったら途中で戻ることもできる。反論するにはきちんと読まなければならない。記事を読んで嫌な気持ちになったとして、クリックした自分、という事実がどこかにあって、他人だけを責める気にはならない。そう思うから。

Twitterなんかでは、誰のとも知れない呟きがいきなり現れる。文字を読むスピードがある程度あれば、瞬時に内容が分かる程度の長さしかない。スクロールしていくうちに、なんとなく目を留めるかもしれない。いいねすること、拡散すること、文句を言うこと、賛同すること、批判すること、それらは同じ画面ですぐに行える。行動にほとんど障壁がない。だから考えないし、自分の責任に思えない。あまりに「軽すぎる」。

ネットニュースなんかがSNSで拡散されると、明らかに中身を見ていない批判も現れる。それはクリックひとつに「重さ」があって、壁として機能していることの表れだと思う。面白いと紹介されていても、画像ではなくリンクだと気がついた時にそのワンクリックをためらう。面倒だからやめる。そんな経験は誰にもあるだろう。そのクリックひとつ、タップひとつに人間の決断と行動がある。だから少しだけ重い。

その重さを、自分に課すためにブログ形式の場所で自分の意見を書くことにしている。自分の書いたことの責任を少しでも感じるために。読む人にも、ほんの少し、選択したのだという気持ちになって欲しい、とも思っている。それに、この重さは自分を守るためでもある。全く関係ない人に生身で晒されるTwitterは、予想外のコメントが来ることも、的外れな意見をもらうこともある。フォロー中のひとが空リプを飛ばすこともある。ブログならほぼ起こらないことだ。

言及したっていいことはない。いまならバズればお金が少しもらえるのかもしれないが、そんなことで得た雀の涙ほどのお金にあまり価値を感じない。そんなこと、というか、ほとんど人を殴って得たお金みたいなものだ。作品やそういったものでバズっている人以外は。

だからできるだけ、Twitterではせめてネガティブなことは言いたくない。”トレンド”の話題に触れたくない。良かったこととか、みんなにとってどうでもよさそうなこととか、自分が作ったものを載せたい。そうやって使うつもりだ、今後も。

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