あした生きることだけ考えよ

 わたしの精神状況は、悪くなって、少し良くなって、を繰り返している。たぶん少しずつ上向いてきているとは思う。でもまだ動けなくなるくらい落ち込む日は何度か経験するだろうとも思う。

 忙しかった二週間ほどを乗り越えて、ようやくひと息つけた。やっぱり最後は苦しくて、消えてしまおうかという考えがよぎってしまった。しかし最後はサボりながらも、まずなんとかカウンセリングの日に辿り着いた。
 これで助かった、と思えた。いちどこころの中を吐き出してしまえるから。よかったと思ったこと、辛いと思っていること、そして楽しかったこと、色んなことを話せた。
 わたしはまだ本当の苦しみを分かってもらえてないと感じている、ということも話せた。それについて、上手く頑張れているけれど、頑張れてしまっているのを感じる、と言ってくれた。

 その次の日は病院だった。ここでは疲れやストレスから来ていると思われる症状について話して、生活習慣のアドバイスと薬の変更をしてもらった。
 そして、以前受けた心理検査について尋ねると、「あなたは賢いから医者も騙せてしまっていると思う。正直最初はそんなに病状は悪くないと思っていたけれど、実は結構重いのではないかと思って検査をお願いした」といった説明をもらえた。まだ結果は知らないけれど、実はわたしの苦しみは伝わっていたんだな、と思ってありがたかった。もしかしたらお医者さんが思っているほど悪くない結果になるかもしれないけれど、この言葉で安心したところがある。治るという希望を捨てずにすんだと思う。

 わたしは一秒後から十年も二十年も先のことまで、あれこれと考えて対策を立てようとし、疲れ果てて不安になることが多い。未来のことなんて分からないのに、それでも準備すれば悪いことにならないんじゃないかと思ってしまう。少なくとも怒られることを回避できるのではないかと。
 けれど病気の治っていく速度はとても遅くて、十年後なんて未来は絶望に染められているように思えた。わたしが今どんなに努力したって意味ないと感じるような色に見えた。

 今回、カウンセリングや病院に辿り着けて、よかった、助かった、と思えたことで、そんなに未来のことなんて考えなくていいのかもしれないと感じた。まずは明日とか今週とか、短い未来のことだけ考える。次に休める日のこと、次に楽しいことがある日のことだけ考える。それでもいいのかもしれないと思えた。


 シン・エヴァンゲリオン劇場版で、ミドリがサクラに「もう明日生きることだけ考えよ」と言った時、わたしはそんなの逃げじゃないかと思った。思考停止の逃避だと。考えて考えて、そうして未来を少しでも良くすべきだと思った。けれどそうではないのかもしれない。未確定な未来について考えても、それはエネルギーの浪費であって正しい対策ではない。むしろただ考え続けることのほうが、生きることからの逃避なのかもしれない。休むときにきちんと休むことも、きっと生きることだ。
 これだけ不安に支配されたこころには、思考は毒になってしまう。明日の授業のこと、月末の試験のこと、来年の実習のこと、数年後の就職のこと。それを考え続けるのは、いまを生きることからの逃避にもなりうる。

 考えすぎないで、と言われるたびにそれで失敗したらどうするんだと思っていた。でも考えすぎて失敗することもあるのかもしれない、と腑に落ち始めた、そんな二週間だった。

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