さよならちいさな僕

 僕には子ども時代というものがない。乳児期、というものはあった。おそらく。でもものごころついたときから、僕はもう子どもではなかった。

 人生でいちばん初めの記憶、それは「僕が悪いんだ」から始まっている。誰かが怒っているのは僕が悪いんだ。何かが上手くいかないのは僕が悪いんだ。3歳くらいの僕は既にそう思っていた。

 だからずうっと誰かに気を遣っていた。怒らせないよう、困らせないよう、見捨てられないように。怖くて不安でたまらなかった。ひとりぼっちだった。でもいい子にしていれば、そこまで酷いことにはならないのも知っていた。だからいっしょうけんめいに、いい子を頑張った。

 お母さんに三つ編みしてってお願いしたとき、お母さんはやり方分かんないからって言われてすぐに諦めた。もっとわがまま言えばよかった。でも仕事で忙しいお母さんにそんなこと言えなかった。

 疲れたとか、帰りたいとか、これ買ってとか、抱っこしてとか、ちゃんと言えばよかった。そんなこと言ったらお母さんは困ってしまう、だからやめようなんて思わずに。

 体調を崩しても、その苦しさより申し訳なさの方が苦しかった。僕のせいでお母さんは仕事を休まなくちゃいけない。どれもこれも僕のせいで。

 僕が悪いんだ、と思ったあの瞬間、子どもの僕は死んでしまった。なにが僕をそう思わせたのか、それはもう知ることも出来ない。けれど確かに、ものごころついたときには、子どもの僕はもういなかったのだ。冷たく横たわって、真っ白になって、ぴくりとも動かずに、死体になった子どもの僕は、誰にも気づかれることなく転がっていた。

 本当の自分が分からない、とよく思う。たぶん、本当の自分だ、と思うために満足いくまでわがままを言った子ども時代がなかったからだ。他人に見せる僕はどこか借り物で、居心地悪く感じるのも、心に穴が空いている気がするのも、きっと子どもの僕はもう死んでしまったからだ。

 子どもの僕は生き返ることが出来るのだろうか?生き返ったとして、大人になれるのだろうか?それで心の穴は埋まるのだろうか?
 それとも新しい僕がどこからか現れるのだろうか?

 そのどれもあり得ないような気がする。一度死んだ生き物は生き返らない。だから僕の心の穴はずうっとこのまま。僕の肉体が死ぬまでこのままなのだろうと思う。

 それを認めて、子どもの僕は本当に死んでしまったのだと諦めて、それでようやく何かのスタートラインに立てるのかもしれない。

 けれど僕はまだ子どもの僕を諦めきれていない。もう戻ってはこないあのときを、もう得ることのない愛を、ひたすら探し求めて彷徨っている。にんげんのふりをしたゾンビ。死にたくても死にきれない。にんげんが羨ましくて仕方ない。子ども時代を過ごしたにんげんたちが。

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