擬態

 どうしてが僕はたぶん、にんげんに擬態するのが上手い。正確には、「大丈夫」に擬態するのが上手いのだ。

 最近朝が苦しくなった。起きられるけれど身体がだるい。憂鬱という重りが僕をベッドに引き摺り込む。やっとの思いで朝食と薬を流し込んで家を出る。鞄はいつもより重たい。

 電車の中では憂鬱なまま、音楽で耳を塞ぐ。立っているのも苦しい。ヘルプマークを貰いに行くか決心がつかないまま今になってしまった。だから席が空いていなければ立っているしかない。

 どうにか学校に辿り着いて、冷房の効いた建物に入ると、動悸が襲ってきて、そして僕は「大丈夫」になる。研究室のみんなに笑顔で挨拶をする。さっきまでの憂鬱をどこかに隠して。

 そうして疲れも憂鬱も忘れたように日中の活動をする。時折憂鬱を思い出して、耐えきれなくなると隠れるように薬を飲む。早く帰ろうかと思うけれど、やっぱりここまで、と思って、帰りはいつもの時間。

 建物を出て歩道橋を見ると、ここから飛び降りたらどうだろうと無意識に視線を向ける。また始まった。ここなら電車に飛び込める。ここからなら飛び降りることができるかもしれない。いや首を括ろう。そんなことを考えながら家に着く。

 そうして食事や娯楽やその他もろもろを流し込んで憂鬱から逃げ出す。まだ大丈夫。だってちゃんとご飯も食べてお風呂にも入っているんだもの。でも薬を飲む時、まるでサイボーグみたいだと思う。こころを化学物質で制御されたサイボーグみたいだと。

 寝る前は再び憂鬱だ。明日の朝も重たい身体を引き摺って外へ出るのだと思うと明日なんて来て欲しくないと思う。調子の波に振り回される僕、どうして僕がこんな目に遭わなくちゃいけないの。

 大丈夫、は演じられても、普通、はもう演じられなくなったと思う。他のひととの雑談が苦痛になって、複数人ならその場から黙って離れてしまう。もしくはスイッチを切ったように黙りこくって別のことを考える。他人の噂話も恋愛も結婚も子供の話も全部どうでもいい。いや、全部苦痛なのだ。僕が普通ではないことを突きつけられるから。彼らはどうやら本気で結婚とか子供をもうけるとかそんなことが当たり前で幸せだと感じているらしい。そのこと自体は別にいい。個人の思想の自由だ。けれどみんなそう思っていて当然だよね、という空気に僕は押しつぶされ絶望する。確かにそれらはひとを幸福にもするかもしれないが、底知れぬ不幸にもする存在なのだ。それは誰にも理解されないのか。なら僕はひとりぼっちだ。

 にんげんなんて分かり合えないんだよ、とひとは言う。しかしその分かり合えなさの度合いがこれ程までに違っていれば、そんな言葉は嘘でしかない。どうして彼ら彼女らは共通の幻想を抱くことができ、僕はそうでないのか?どうして僕には同じ幻想を見てくれるひとが現れないのか?これを不平等と言わずになんと言えばいいのだろう。

 普通、でいることは諦める。仕方がない。でも異物である僕は自然とその場からはじき出される。しかし僕と違う幻想を見ている彼らはほんなことに気づきもしない。僕に対しても勝手な幻想を抱く。お願いだから僕のことなんて忘れてよ。やっぱりひとりで生きていくからさ、お願い。そっちの思い込みで普通のひとなんだと思われるのは苦痛なんだ。ぼくはきみたちとは違うからさ。きみたちの幸せを遠くから願っているから、お願い、僕をひとりにさせてよ。

 どうして、かみさま、僕悪いことしたのかな。パパやママの求める良い子をできていたはずなのにな。どうしておかしくなったんだろう。どうしてパパやママは優しくしてくれなかったんだろう。やっぱり僕が悪い子だからなのかな。僕は普通じゃない、悪い子なんだ。

 だから僕と関わってもいいことないよ。僕ひとりで大丈夫だよ。みんなばいばい、僕のこと忘れて幸せにね。

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