〇〇としての「メンヘラ芸」

 敢えてステレオタイプ的なメンヘラをやってみる。そこまでいかなくても、メンヘラアピールをする。僕は結局それをやっている。

 やってみて、それでどうだったかというと、別に何も変わらない。表面上は。友達も、先生も、前と同じように接してくれる。

 でも確実に何かが変わっている。たぶん、悪い方に。少なくとも僕の心は傷ついているように感じる。

 ヘラヘラ笑いながら、ODしたとかメンヘラだからとか言う。相手は少し困惑したように、やばいねとかそんなことないよって言う。その度にたぶん、僕への信用が少しずつ削られていく。

 ただただ、助けて欲しいだけ。分かって欲しいだけ、辛いんだって。でもそれを素直に口に出すことができない。どうしても、それだけはできないんだ。

 助けて、って本気で言ったら僕は壊れてしまう。正しくは、本気で言った助けてを受け入れてもらえなかった時に壊れてしまう。受け入れてもらえるかなんて相手次第。だから僕は壊れないように、「メンヘラ芸」でコーティングしたSOSを出す。ただただ、自分が傷つかないためだけに。

 だからこれはひどい行為だ。相手への裏切り、甘え、試し行為。やっちゃいけないこと。数年後に周りに誰もいなくなったとして、それは他でもない僕自身のせいだ。

 でももう耐えられない。助かりたい。でも助かる方法が分からない。助けてって言う方法も分からない。誰が助けてくれるのかも分からない。どうしたらいいのか分からない。

 もう僕の心は十分壊れている。でもまだ粉々になる余地はあって、その度に痛みを感じる。酷いよ、これ以上痛めつけるなんてさ。だから神様なんて信じない。救いなんてないんだから。

 世の中、「普通」だと偽って生きていかないといけない場面がたくさんある。「普通」のひとが多いから。どうしてどうして?正規分布のグラフを見る。ああそうか、と納得して、そして絶望する。


 試し行為としての、心を守るための、SOSとしての、反逆としての、メンヘラ芸。誰かに受け入れてもらえるのか。たぶんそのまま朽ちて死ぬだけ。

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