裏千家流 茶の道(14)

茶道心講 反芻(はんすう)の先  岡本宗心氏著、淡交誌10月の記事 :
映画の「日々是好日」で茶の先生の「考えなくても身体がひとりでに動くようになるまでお稽古するのよ」というセリフがあって、見た人の印象に強く残り感動の反応に接するが心理学者としては、この言葉の「反芻万能」のニュアンスに違和感を感じる!
上達の心理的構造は、茶道ほかさまざまな道の達成課題で共通している! この状態は、学習心理学で「自動反応」と呼ばれる状態で、上達の道半ばである! 技量・力量の成熟は、反芻による自動反応段階に達した上で、そこにもう一度思考を通さねばならず、自動反応だけでは、技量の柔軟性も味わいもない状態なのです!
昔の稽古では「平点前三年」と言った、それは自動反応を達成するプロセスである! その後の小習いが、ここで言う「思考を通す」ことを学ぶプロセスである!
例えば茶碗荘点前では、茶碗をとる所作置く所作が両手扱いとなる為、身に付けた所作に混乱が生じる! その混乱は「所作の意味を区別し認識する」ことによって初めて収束する! これを点前毎に複数の角度から強いるのが小習いである!
茶会では、水指の蓋を開けてなかったとか、茶筅が倒れるとか、建水拝見の要望がでるとか、思わぬ展開が起こる! そんな対応のゆとりは思考を通した不断の稽古によって生まれる!
連客での茶事で、普通の棚点前なのに荘り物に匹敵する茶碗で、どうも正客に由来する茶碗らしいとふと読み取れることがある、亭主の所作のそのようなコクも、それを感得する客の感性も思考を通した稽古の産物なのである!


以上、この書での説は確かに一応の理は感じるのですが、矢張り小生のお茶の感性からすると疑問が残るので、この記述をするものです!
「考えなくても身体がひとりでに動くようになるまでお稽古するのよ」との教示は残念ながら師匠から受けた記憶はなく、裏流での小習い、四ヶ伝、奥伝に至るまで必死でその手順を記憶する学習を続けてきました!
勿論習得が進めば各段での基本律や手順が身に付くことなので、この点を指摘教示をしていることなのかも知れませんが、点前手順の記憶思考を外してのお茶を始めたのは、どの段階であったのか記憶も定かでありません!
でも禅堂への入山を始めて、坐禅を踏まえてのお茶として、茶禅一味のお茶を探求する道を歩むようになって、思考を止めてお茶点前を勧める修業となっております!
何を感じるかと云えば、お茶の初期は点前での混乱や悩みも多いので「考えなくても身体がひとりでに動くようになるまでお稽古するのよ」との教示も理のあることだし、さらにその点前を種々の段で求めれば、学習心理学で「自動反応」と呼ばれる状態で、これを超えねば点前の進展は出来ないのかも知れません!
しかし教示を受ける諸点前の探求修業を進めようとすれば、その手順思考を止めてお茶点前を勧める修業をせねば、お茶修業のレベルを深められないとの認識であります!
以上、宗心氏の論説は初期茶の学習に過ぎないと評価をするものです!

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