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摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第30回 「荒木の乱」の塩川長満は“風見鶏”だった?  ~誰かさんがWikipediaを“憶測”で書き換えていた~

[はじめに]

またまた御無沙汰致しております…。
2月末から私用が重なって中々原稿に立ち向かえず、ついつい間を開けてしまいました。
ただ、資料漁りだけは続けていて、「九条稙通」とか、その絡みで「摂津・小浜町」(宝塚市)の構造とか「慈光院(塩川長満娘・“妹”)」の絡みで引っ掛かった「誠仁親王」とか「梶井門跡」とかの「沼」にハマっておりました。これらについてもなるべく早く(汗)アップしたいとは思っておりますが…。

[Wikipediaの「塩川長満」の内容が書き換えられていたが‥]

さて、久しぶりにWikipediaの「塩川長満」を参照してみたら、今年2021年1月22付けで内容が更新されていました。(2021年6月25日現在)
私はWikipediaに関しては、「取り合えず便利」という意味で有難く参照させて頂いており、その記述内容に細々と突っ込む気はないのですが、ただ今回の「書き換え」において「荒木村重の謀反」に関する以下のフレーズだけは、妙に引っ掛かってしまいました。


「天正6年(1578年)、村重が謀反を起こすとそれに従うが高山右近・中川清秀らが信長に降ると長満もそれに従い、有岡城攻めに参加。」

う~ん…、2021年の今になって、わざわざこの「書き換え」はちょっと酷いなぁ…という感じです。(実際にはこの他にも色々とあるのですが、長くなるので、一先ずこの件に絞り込みまして)

「荒木村重の謀反」においては、一般的には

「高山右近が最初に織田方に返り咲いたことをきっかけに情勢が逆転した」

という“常識”が根強く浸透しているので、それに整合させる為にこんなフレーズを書き加えたのでしょうか?。けれど、史実においては

「高山右近が織田方に戻ったのは塩川長満より1ヶ月弱も後」

の出来事なのです。というか、そもそも


「塩川長満は荒木村重の謀反に基本加担していない」

ことは、当連載においては、繰り返し根拠をもってお伝えしております。

[川西市史第2巻の記述に退化]

なお、今回Wikipedia上で書き換えられた


「塩川長満は、高山右近や中川清秀が織田方に寝返った後に、織田方に寝返った」

という言説は、「川西市史第2巻」が昭和51年(1976)に「塩川国満の行動」(“長満”の間違い)として“歴史叙述”して以来、一般に長らく信じられている内容です。

Wikipediaの「有岡城の戦い」(リンク)にもいまだに反映されています(2021,6,28現在)。
今回はそれを、ご丁寧にも「長満」に置き換えて甦らせてくれたわけで、要するに


「塩川長満は最後に尻馬に乗った”風見鶏野郎“」

という評価を与えられたという事です。

当連載においては、特に第20回(リンク)において詳細にご紹介しましたが、塩川長満が「荒木村重の謀反」に当初から加担しなかった事は、それまでの断片的な諸情報からも推定されてはいましたが、昨年(2020)3月に東京都町田市にオープンした「泰巖(たいがん)歴史美術館」が新たに公開した「十一月三日付」の「塩川長満宛 織田信長朱印状」(同館の公式ツイッター2021年5月4日で紹介。開かない場合はドラッグ➡「新しいタブで開く」を選択)により、塩川長満が「荒木の乱」当初から織田方であったことが確実となりました。加えて「信長公記」における荒木村重の謀叛発覚のくだり

「(天正六年)十月廿一日、荒木摂津守逆心を企つるの由、方々より言上候」

における「方々より言上」した人物の一人が塩川長満であったであろうことも、この朱印状の記述内容から判明しました。
(これらの知見が、果たして研究者間に充分浸透しているか否かは存じませんが)
文書の発見によりエキサイトした私は


「ようやく442年目にして塩川長満に正当なスポットライトが当たりはじめたのです!」

なんて記してしまい、ひょっとしたらこの史実が大河ドラマ「麒麟がくる」にも反映されて広まるのではないか!?と期待しましたが、結局「麒麟~」における「荒木の乱」の描写は、歴代大河の中でも最悪レベルの“ファンタジー”に終始してこの「新事実」に触れるどころではなく、逆にこんな風にWikiの長満の記事が“退化させられた”、というのが2021年初頭における状況なのでした。

[出典が記されていないので執筆者による勝手な類推?]

ともあれ、「出典はやはり川西市史か?」と、Wikiの末尾を参照してみると、ただ1つ「織田信長家臣人名辞典(第二版)」(吉川弘文館)が記されているのみです。
う~ん…、これでは同辞典を著された谷口克広氏に対して極めて失礼です(怒)。
なんとなれば、「織田信長家臣人名辞典」の「塩川長満」の項目は、1995年の初版以来「荒木の乱」に関しては一貫して

「同六年、村重が信長に背くと、これを離れ、十二月には有岡城攻めに参加」

とシンプルに記されていた事が大きな特徴であり、これは同書の発刊当時、極めて「大胆、かつ斬新な記述」(!)であり、2021年現在においても「正しい歴史叙述」であり続け、Wikipediaは今年の初頭に至るまでこのフレーズをそのまま採用してくれていたのです。

第30回荒木乱時系列アイキャッチ

因みに、川西市や猪名川町といった地元でさえその存在を知られていなかった「塩川長満」という名前を、世間に浸透させた最大の功労者がこの「織田信長家臣人名辞典」であり、Wikipediaがそれを採用した事が大きかったのです(それまでは、多くの歴史学者でさえ「塩川国満」しか知らなかったのです)。

[そもそも“風見鶏野郎”に信長本陣を任せたりするか?]

ともあれ、今回Wikipediaが変更した
「村重が謀反を起こすとそれに従うが高山右近・中川清秀らが信長に降ると長満もそれに従い」

というくだりは、この匿名の論者による「勝手な推測」のようです。
おそらくWikipediaの「有岡城の戦い」(リンク)を参考にされたか、「信長公記」における「摂津衆が東から順番に降服してゆく日付」からの“憶測”で書かれたのでしょう。
また、塩川長満が論者の言う如く本当に“風見鶏”であったとすれば、そもそも古池田の織田信長本陣の在番担当に任じたり(信長公記)「塩川勘十郎」(塩川家家老)の案内で無防備に「多田谷」に鷹狩に出掛けたり(上同)するでしょうか?
いくら信長が近年、“無警戒過ぎるキャラクター”と評価されているとは申せ。
また、“風見鶏”であれば、その娘を織田信忠に嫁がせる(荒木略記、続群書類従・織田系図(織田内匠頭長清本写 元本 尾州法華寺所蔵))ことなど有り得ないでしょう。
ついでながら彼女が、「側室」であったと書かれた史料は存在しないので、これもしばしば"憶測"で語られたりします。実際には(嫁取り式を経た)正式な「妻」ではあったと思われます。

[皆で寄ってたかって…]

なお、「信長公記」には「塩川(河)伯耆」がこの乱において「織田方に投降する記述」は一切ありません。
結果的にそれは当然で、塩川長満は始めから織田方に敵対していないので、そもそも「投降」する必要が無かったからです。
ただやはり、「太田牛一」が、この乱における塩川長満の立場をキチンと書いてくれなかった事が、この誤解を生んだ大きな要因になったとは思われます。
加えて後に、小瀬甫庵が「信長記」において、この塩川伯耆守の「功績」を「善政」にすり替えて出版、同書がベストセラーとなったうえ、さらに「多田雪霜談」や、あの「高代寺日記」でさえ、この「甫庵 信長記」の記述から引用したりしたので、この史実は大幅に霞んでしまいました。
一方、当連載においてその「信頼性」が明らかになりつつある「荒木略記」もまた、やはり同記が「徳川幕府に提出する履歴書」的な性格を有していたこともあり、「荒木家の黒歴史」とも言える「村重の謀反」については、敢えて記されませんでした。
ただ唯一、なぜか「陰徳太平記」だけが
「多田院の城主 塩川伯耆守は 信長卿御内縁の有りける故、荒木を背きて信長卿へ一味しける間、さらば軍神の血祭にせよとて足軽を差遣はし、散々に打破らせ、心地よしとぞ悦びける」
(「信長卿御内縁の有りける」は、むしろ「乱の功績」による"結果"とは思われますが)
と記してくれている事が特筆されますが、残念ながらやはり「陰徳太平記」自体は、歴史家から尊敬されている文献とは申せません。

[いまだに大きな市史2巻の影響]

ただし「川西市史第2巻」は、あれだけ「甫庵 信長記」や「多田雪霜談」から引用しているのだから、少なくとも「多田雪霜談」よりは良質と言える「陰徳太平記」におけるこの「塩川氏の記述」に一切触れなかった事が、やはりこの誤解の最大要因ではありましょう。(この点、「高代寺日記」や「荒木略記」も同様ですが)。
加えて、以下も繰り返し述べておりますが、江戸時代前期の「穴織宮拾要記」に

「(荒木の乱勃発時の)此時山下ノ城主 塩川伯耆ハ荒木下ナレ共、家臣共伊丹へ籠城させ菅屋九右衛門 池田へ軍取ノ後来 信長方二ナリ~中略~沢庄兵衛 塩川家臣 伊丹よりにけ(逃げ)人後 小坂前ニ住ス」

という記述があり、「川西市史第2巻」は「なぜかこの内容だけを採用」して、他の摂津衆が織田方に寝返った後に

「山下城の塩川国満(ママ)も家臣を村重の有岡城に籠城させていたが、やがて帰順した」(P17)

と「歴史叙述」してしまいました。
市史第2巻における“塩川氏関連記事の間違い”は、全てこういった
「複数の史料から総合的に判断せず、なぜか“特定の史料(もしくは記述)のみ”を全面採用し、しばしばそれに反する史料自体を掲載しない(よって、読者が正否を判断出来ない)」
というのが一貫した“パターン”
です。(加えて、その"非常に偏った見解"を「宝塚市史」「猪名川町史」が"横並びで"追随し、平凡社の地名辞典(それ自体は良著なのですが)によって全国に拡散されてしまいました。)

[「穴織宮拾要記」に関して重ね重ね補足]


なお、私は上記「穴織宮拾要記」(寛永十七年(1640)年成立)の記述の"全てが間違い”だとも思っておらず、塩川氏が“一枚岩では無かった”可能性をも含め、何らかの貴重な史実が反映されている、とは認識しております。
特にこの文中に、他史料から「織田家における塩川との取次」であったと判明する「菅屋九右衛門(長頼)」を登場させている点などは、むしろ史料の信頼性の傍証だと思っているくらいです。

しかしこの「菅屋九右衛門 池田へ軍取ノ後来 信長方二ナリ」に登場する「菅屋九右衛門」自身は、前述の「十一月三日付 塩川長満宛 織田信長朱印状」(泰巖歴史美術館所蔵)において既に織田信長と塩川長満との「取次」として記されているので、この「穴織宮拾要記」における「塩川氏が菅屋が池田に到来(十一月下旬頃か?)してから織田方に付いた」という“時期の解釈”についてだけは、明らかな間違いです

なお、「穴織宮拾要記」自体の信頼性についてですが、同記はこれとは別に「天正六年十月二十八日における荒木方による栄根寺焼き討ち」(塩川領へのおそらく最初の先制攻撃)の事をも記載しているのです。要するに「穴織宮拾要記」は塩川氏が「十月二十八日時点で既に織田方であった」としか思えない記事もちゃんと掲載しているわけです(こちらは何故か市史において無視されましたが ! ! !)。

なお「川西市栄根寺廃寺遺跡 第20、21次発掘調査報告 川西市教育委員会(2003)」においては、まさにこの「穴織宮拾要記」の記述通りに「仏堂Ⅱ」跡(下右図「仏堂I」の位置)から火災痕跡を伴う大量の16世紀の土師器や瓦、炭、焼土が検出されて火災自体は実証され( ! )、報告書はこれを「16世紀末頃の火災」すなわち「荒木村重の乱」に比定しています。

栄根寺編集


[“荒木村重の謀反”初動時における、塩川関連記事の時系列]

最後に、せっかくの機会ですので、「荒木村重の謀反」初動時における「塩川長満」の動きを時系列で整理しておきましょう。

*天正五年(1577)五月、毛利方の吉川元長が、播磨の織田方陣営内における“荒木村重の戦意の無さ”を敏感に感じ取る。(吉川家文書)

*天正六年(1578)六月二日、吉川元春が古志重信に対し、荒木村重への「調略」を指示する。(牛尾家文書)

*同年十月十四日、毛利氏が鞆浦に擁していた将軍・足利義昭の側近、小林家隆の調略により、荒木村重の謀反が決定される。(萩藩閥閲録)

*同年十月十七日、本願寺光佐(顕如)が荒木村重、村次宛に起請文を提出する。(京都大学総合博物館所蔵文書)

同年十月二十一日、荒木村重の謀反計画が「方々より」安土の織田信長の元に注進されて発覚する(信長公記)。また、この「方々より」の一人は塩川長満だったと思われる(泰巖歴史美術館所蔵「塩川長満宛 織田信長朱印状」)

*この直後、織田信長は松井友閑、明智光秀、万見仙千代を派遣して荒木村重の説得にあたるが、村重これに応じず(信長公記)。一方、黒田孝高も同様に派遣されたが、有岡城内に幽閉された(黒田家譜)。

同年十月二十八日、荒木軍が塩川長満領である加茂村、栄根村、 栄根寺(川西市)を焼き討ちして先制攻撃をかける(「穴織宮拾要記」、伊居太神社文書)

また、おそらくこの頃、塩川領内の多田院、満願寺、中山寺、清澄寺(清荒神)、高代寺も焼亡したとみられる(  穴織宮拾要記、中山寺再興棟札ほか)高代寺を除くこれら4寺院からは16世紀の大規模火災痕跡が検出されている。焼亡の日時は不明だが「信長公記」に焼き討ちの記事が無い事等から、織田軍が古池田に到着する以前の「十月末~十一月中旬頃」だったと推定される。(画像はクリックで拡大。さらに「上にスライドする」と元に戻ります)

荒木乱焼失寺院群

池田城跡より中世中山寺跡編集

*同年十一月一日、明智光秀が小畠越前守に織田信長の摂津における「御座所」(本陣)を設営する必要性に言及する(小畠文書)。

同年十一月三日、織田信長が塩川長満に対し、今回の行動に謝意と慰労を述べた朱印状(泰巖歴史美術館所蔵「塩川長満宛 織田信長朱印状」リンク)を発給し、摂津に向けて安土を出陣する(信長公記)。

同年「十一月 日」付で信長による「塩川領中所々」宛の禁制が発給される(中山寺文書)。

同年十一月十四日以前、高槻城の高山右近が織田方に投降。(信長公記)

*同年十一月十四日、小早川隆景が、一連の毛利・本願寺方による調略は、摂津国内に止まらず、大和、河内、和泉、播磨にまで及んでいる事を伝える(「毛利家文書」、天野忠幸氏の「荒木村重」(戎光祥)より孫引き)。

同年十一月十六日、投降した高山右近が「郡山」(現・茨木市)の信長本陣に御礼に出向く(信長公記)。

*同年十一月十九日、明智光秀が小畠越前守に、「古池田」(池田城跡)の信長本陣の普請が「一両日之内」に片付くことを伝える(小畠文書)

同年十一月二十四日、茨木城の中川清秀が織田方に投降する。(信長公記)

*同年十一月二十七日、信長、本陣を郡山から古池田に移し、晩に投降した中川清秀が古池田まで御礼に出向く(信長公記)。

同年十一月二十八日~十二月一日、大和田城の阿部二右衛門が「古屋野」(昆陽野)の織田信長陣所まで投降の意を伝え御礼に出向く(信長公記)。

同年十二月十一日、有岡城包囲網における各陣所の配置が発表され、信長自身も再び「古屋野」から「古池田」に陣所を戻す。そして「塩川伯耆」も「諸将の中で唯一、古池田の信長本陣の配置」となる(信長公記)。

同年十二月十三日、塩川領の「白山権現伽藍」(現・八坂神社、宝塚市平井)が荒木方により焼失した(山本自治会文書)。但し現存する本殿(市文化財指定)自体は室町時代後期の様式を持つという(宝塚市史)。

平井八坂神社白山権現


せっかくですので、これら時系列の記事を保存し易いように、“画像”にしてみました。赤の部分が塩川関連です。(クリックで拡大)

荒木の乱初動時系列色付き


(つづく。2121,6,27 文責:中島康隆)


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