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「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」第26回 天文十年(1541)以前の塩川氏の拠点「平野・新田村」、及び、平野、笹部に勧請された「源氏の氏神・平野神社」

①はじめ

さて、前回「慈光院」に関する予告、及び年末のご挨拶までしてしまった私(汗)ですが、ふと思いついて、半ば「実験的」に上記のテーマで「画像主体のアップ」というものをしてみます。
現在「塩ゴカ」では、将来アップ予定の様々なテーマを抱え込んでおりますが、何分生来の「遅筆」故、正直このままのペースではアップ出来る時期さえもオボツカナイ状況です。

今年秋より始めさせて頂いたnote.comにおいては、従来の「東谷ズム」における連載枠に比べ、「格段に容量の大きな画像」を多数使えることから、ふと、イベント「東谷ズム」における私のブースであった「戦国1日博物館」(@山下町自治会館)

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において、壁に展示していた「模造紙」("パネル"なんてとても言えない…)の画像だけでもここに表示することにより、これまた(作文に苦しむことなく)「塩川氏の情報提供」に一応繋がるのでは?と思うに至り、とりあえず暫定的というか実検的にアップしてみます。
(「東谷ズム」のホームページ連載においては、画像の容量と点数の制約があったので、2点の冒頭画像に「これでもか、これでもか!」とばかりに見づらい情報群を詰め込んで、ほぼ「芸術作品」と化しておりましたが(汗)、note版における第22~23回連載画像のいくつかは、元々「東谷ズム」用サイズで作成したものを流用したものだったのです。)

天文十年(1541)以前の「平野・新田村時代の塩川氏」の拠点について

今回のテーマはこれです。

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これは「塩川国満、長満」による天文~天正年間にかけての塩川氏の拠点城郭、氏神、菩提寺の「移転」や「山下町建設」を表した地図です。

段丘上の「新田城」は、やはり「要害性」が低く、加えて強豪「摂津池田氏」の拠点に近すぎる、という点にも危機感を抱き、「塩川国満」は領内北部の「山城」に拠点を移したのでしょう。

ではこの「移転」前の「新田城」付近の様子はどうだったのでしょう?

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これはその塩川氏発祥の地である平野村、の昭和30年代末の地形図です。
上部に「平野湯旧地」と記した部分のピンク枠の文献は、連載第20回の項[多田院の作事には、大和・長谷寺の番匠が出向していた]https://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding20/においてご紹介した、興福寺の「大乗院雑事記」所収の「尋尊大僧正記」の「永正二年(1505)二月十一日」の条に「多田塩川湯ニ入云々」と記録された「大和・長谷寺の番匠」から尋尊への音信等のくだりです。

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昭和30年代の空中写真(ステレオ、赤点は実体視」用の基準点)。中央は平野が発祥の地である「三ツ矢サイダー」の工場(現・ホームセンターコーナン)。その左下あたりが旧「湯の町」です。

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平野村、新田村のアップの部分。北から流れて来て「大路次川」に合流しているのが「塩川」です。

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さらに「塩川」右岸のアップ。中央の「城山」とある段丘から左上の「愛宕山」にかけてが、塩川氏の拠点であったと思われる「新田城」の跡です。谷を隔てて北東隣の対岸にも「古城」という字名がありました。

川西市教育委員会による「新田城址遺跡第6次調査」(岡野慶隆氏)によると、段丘上の「戎垣内」から15世紀の遺物やピット、溝、火災痕跡等が検出されています。特筆すべきは「18枚が重ねられて一括出土した土師器皿」(!)で、これは一族の結束儀礼である「式三献」に伴うものではないでしょうか(3の倍数という点が興味深い)。
なお、右上の「多太神社」が中世の「平野明神」です。

上記の字「古城」に接する「N45度E」方向の不思議な直線道路は、文献に登場する「平野馬場」ではないかと推測しています。

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上の2つの画像は平成前期頃の地形図と写真です。

天文「二十年辛亥(1551)正月大庚寅(元旦)国満 其家人五十余輩ヲ集 平野馬場ニ馬揃 与力三十余人 此催促ニ応ス」

これは、今からちょうど470年前にあたる「高代寺日記」における塩川国満による正月神事の様子です。

この「馬揃」(うまぞろえ)とは馬を使った一種の「パレード」で、本稿においても「足ソロへ(賀茂競馬足揃)」(近衛信尹の「三藐院記」慶長六年(1601)五月一日条)や、「織田信長」の主催による天正九年(1581)の京における「馬揃」(信長公記ほか)の記事をご紹介しています。なお「明智光秀」を担当責任者とした後者「馬揃」には、織田信長自身の指名により、塩川長満の二大家老「塩川吉大夫」と「塩川勘十郎」も参加しています。

どうやら、その30年前の「塩川国満」もまた、地元で「馬揃」を開催していたわけで、その「平野馬場」の名残が、この不思議な直線道路ではないかと思うわけです。

下は同エリアの昭和30年代の空中写真(ステレオ)です。

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これも平成前期の地形図から。さすがに宅地開発が進んでいます。塩川左岸の「上津城」は、おそらく「多田氏」の館城跡と思われます。

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これは開発前の「上津城」の空中写真です。


②笹部の「平野神社」の名称は、平安中期以来の源氏の氏神の痕跡

勢い、コラムを追加してみました。

[クイズ「源氏の氏神」は?]

もし、歴史に興味のある方々に「平安時代以来、"多田源氏"が信仰していた氏神は、いったいどこの神社(神様)でしょう?」というアンケートを取ったら、京阪神においては多くの方が「源氏まつり」で有名な「多田神社」とお答えになることでしょう。

あるいは全国レベルでは「八幡太郎義家」や、「源頼朝」に関する知見から「石清水八幡宮」や「鶴岡八幡宮」が上位を占めることと思われます。
さて、上記の問いに対する解答は?といえば…

これが意外にも、京都の「平野神社」です。

「平野神社」は平安遷都の行われた延暦十三年(794)に平安京郊外北西部の葛野郡に創建された社です。

そしてこの平安時代以来の「多田源氏の平野信仰」は、様々な変遷を経つつも、奇跡的に川西市内の「平野」という地名や、山下町の東北隣にある笹部の「平野神社」という名称に、その名残を留めているのです。

[「多太神社」は中・近世においては「平野明神」だった]


現在、平野にある「多太(ただの)神社」は、江戸中期の「徳川吉宗」の時代に「延喜式」(10世紀前期)が記した古来の「タダノ社」に比定されて以降、「多太神社」の石碑が建てられてこの名称となりましたが、実は平安中期から18世紀までの800年間は「平野大明神」と称されていたのです(元禄五年「寺社吟味帳」川西市史所収)。

これは10世紀後期に「多田荘」が開かれた時点で、「源満仲」が京の「平野社」から勧請したものといわれています。(元禄期の「摂陽群談」、「多田院由来記」、「寺社吟味帳」)。

しかしながら、明治政府もまた、「復古政策」とも合致するこの徳川氏による「延喜式」の「比定」を引き継いで、当社が「古代以来の多太神社」であることが確定したのです。

よって、ここに祀られている「神様」の方もまた、三転四転と様々な変遷を経たものと思われます。

井上満郎氏の「平野神社史 第二章」によれば、「京の平野神社」の祭神は元々「今木神」、「久度神」、「古開神」、「相殿比咩神」の四神であったようですが、室町時代に編纂された「二十二社註式」によれば、これらの祭神はそれぞれ「日本武尊」、「仲哀天皇」、「仁徳天皇」、「天照大神」に比定されていたようです。

「川西市史第1巻」P283によれば、明治9年の「特選神名牒」に「多太神社」の祭神として「イザナギノミコト」、「イザナミノミコト」、「日本武尊」、「仁徳天皇」が記されているらしく、要するに、この「日本武尊」、「仁徳天皇」こそ、京の「平野神社」からの勧請の名残といえるでしょう。

[「多田院」が近代以降に「神社」に変わってしまって、さらに認識が混乱]


なお、天禄元年(970)、源満仲、頼光らが「釈迦如来」を本尊として建立した当地最大の寺院「多田院」(神仏習合)の方もまた、元々の「天台宗」から「真言宗」へと変わり、加えて「源氏」を祖と崇めた鎌倉幕府、室町幕府、徳川幕府等の信仰、保護を経て、明治初頭に政府の「廃仏稀釈」政策に至っては「仏教」から切り離され、「源満仲」ら五人だけを「神体」とした「多田神社」と名を変え、現在「多田の地における神社」としては、こちらの方が「圧倒的に有名」になってしまった事態は、言わば「バタフライ効果」というか、建立者「源満仲」としては「全く想定外の出来事」であったでしょう。

[「氏神」に歴史あり]


なお「源氏の氏神」というものもまた、主に「河内源氏」系による信仰を通じて「八幡神」の方が有名になってしまいましたが(連載第17回で触れた、岡野友彦氏の「源氏長者」P57によると、「八幡宮」もまた平安以来の「公家源氏」の氏神であったようですが)、実は平安以来、平安京外の「北野」の「平野神社」の方もまた、源氏の氏神であったようです(上田正昭監修「平野神社史」(1993)、及び岡野友彦氏前褐書)。
実は「平清盛の厳島信仰」ばかりが有名な「桓武平氏」をはじめとする「平氏」もまた、寿永二年(1183)に「日吉社」を氏神に変えるまでは「平野社」を氏神としており(「吉記」)、それどころか、「平野神」は十一世紀の「大江匡房(まさふさ)」(江都督納言願文集)により「皇別八姓」の氏神とも認識されていたようです(井上満郎・上記「平野神社史」第二章、及び三章)。
余談ながら、当代きっての学者として著名な「大江匡房」は、源満仲の曾孫「源頼綱」とも知己であり、匡房が摂津「はつかの山」(現・三田市羽束山)滞在中の源頼綱に贈った「歌」(続詞花和歌集巻十六雑上784)は、「平安期の多田荘」に関する稀少な史料でもあります(連載第14回中の[多田氏は、平安中期の"歌人"としても名高い「多田頼綱」の末裔か?]の項参照)。

[多田源氏もまた「平野社」を主な氏神とした]


さて、「多田源氏」は、一応、多田荘内に「波豆八幡社」(現・宝塚市、源満仲による創建伝承あり(兵庫県の地名))や「吉川八幡社」(現・豊能町、治暦年間(11世紀)の「源頼仲」創建、「寺社吟味帳」)があり、「八幡神」への信仰はあったらしいものの、やはり多田荘の中心部、「源満仲館」の伝承(摂陽群談)のある「新田城跡」のすぐ東北隣(鬼門)に「平野明神」(現・多太神社)が位置を占め、「多田満仲公 為御氏神御勧請也」(元禄五年「寺社吟味帳」)とあることなどから、やはり「平野神」の方を主な「氏神」としていたものと思われます。
因みに「源頼綱」は「高代寺日記」長久二年(1041)十二月条に「千代丸初冠 蔵人頼綱ト号 平野社ヘ参 且 摂家へ参ラル 時ニ十七歳」(長久四年にも同様の記事が重複)と記されており、元服直後に京の平野社に参詣しています。

また、「平野神社」に対する室町時代における認識を表わす史料として、学識で知られる15世紀の「一条兼良」(かねよし、「一条内基」の曽々祖父にあたる)の著作とされる「公事根元(源)」にも「山城國葛野郡平野社」を「多田満仲公 草創の姓神たり」しています。
それにしても、後に「摂津塩川氏」と不思議な縁を結ぶ「一条家」の「兼良」の「御墨付き」を頂けるなんて、ちょっと嬉しいではありませんか。

ともかくも、現在も多田盆地のやや東部に位置する、「さして平らかでもない地」に「平野」という地名があるのは、「京から勧請された平野神社」に由来しているのです。

[「源明国」と"パンデミック対策"と]


天永二年(1111)、多田源氏の当主「源(多田)明国」(「源頼綱」の子、「源満仲」の曾孫)が大きな事件を起こします。

元木泰雄氏の「摂津源氏一門」(史林67-6、1984)によると、「源明国」は血の気の多い人物であったらしく、主である摂関家当主、藤原忠実によれば、既に長治二年(1105)に京の「大宮五条辺ニテ」気に入らぬ自分の郎等を殺害していました。

さらに上記の年(1111)、今度は忠実の密命により出向した美濃国においても、私闘から「源為義の郎党」を殺害し(忠実の日記「殿暦」、「中右記」によれば「於途中 為咎無礼者 与往反人 成闘乱 切三人之首」)、そのまま直ぐに「即 京上」→「仍所々皆以有穢」という挙におよびました。
要するに明国は「祭礼を控えた京に"死穢"を持ち込んで拡散させた」わけで、それが大問題となって咎められ(そ、そっちかい?!)、朝廷において「諸社祭、新嘗祭等 可延引否條」が討議される事態ともなり、最終的に明国本人が佐渡国に配流されて、以後18年間もの間、京に戻れなかった、というのは、昨今のコロナウィルス対策もビックリ仰天の世の中です。
(なお偶然なのか、この「死穢問題」が浮上したまさに十一月四日、上述の「大江匡房」が死去しています(殿暦))。
さて、この時、自宅謹慎" Stay home "を命じられた「件 明國」は「申 無穢之由、其證(証) 明國 奉幣平野」(「殿暦」天永二年十一月六日)と、京内の「平野」に「奉幣」して身の「無穢」をアピールしましたが、もはや手遅れでした。

それはともかく、「源明国」が進退の一大事の折、身を清めるべく奉幣したのが「平野」であったということは、同社がまぎれもなく「多田源氏の氏神」であったからでしょう。

[塩川国満、拠点と氏神を笹部村に移す]


16世紀半ばまで、おそらく上記の「新田城」あたりを拠点にしていたと思われる国人「塩川氏」も、「平野社」(多太神社)を氏神としており、同社における様々な年中行事が「高代寺日記」に記載されています。
その塩川氏も「国満」の時代、細川京兆家(高国、晴元)の被官として台頭、独立した領主「国衆」に変遷する過程において、戦局への危機感から、天文十~十一年(1541-42)にかけて、強敵、摂津・池田氏の拠点から距離をおいた「笹部村」、「一庫村」境界の地に「獅子山城」(いわゆる山下城)を築いて移転、天文十四年(1545)に「平野社」を新天地「笹部村」に勧請します(「寺社吟味帳」は「天文四乙巳年」としていますが、干支、及び築城年から、これは「十四年」の間違いかと思われます)。

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しかし「元禄五年の寺社吟味帳」における同社の祭神は「牛頭天王」とのみ記されているので、おそらく天正十六年(1588)以降、塩川氏が滅亡したことから、江戸時代の「笹部村」において「平野神社」は一旦衰退し、塩川氏が進出する以前の「古来の笹部村の鎮守」であったと思われる「九頭大明神」(位置不詳、吟味帳)、もしくはこの「牛頭天王」(祇園、八坂の神)が祭神として復帰したのではないかと推測しています。(連載第12回において、この辺りの説明をしていませんでした。)
しかし再び、明治以降、政府による神社政策は「牛頭天王」や「○○明神」といった「神仏習合」を思わせる神名を嫌って排除し、僅かに残されていた「塩川国満勧請の由緒」から「平野神社」の名前が復帰したものと思われます。

ただし祭神は「日本武尊」、「素盞鳴命」となりました。ともあれ「日本武尊」の方は、上述したように「京の平野神社」における「今木神」の名残として挙げられており(平野神社史)、かつての「源満仲の信仰」を引き継いでいると言えましょう。 

加えて平野村の「平野明神」の方は既述の如く18世紀以来「多太神社」に「先祖返り」されてしまっておりましたので、図らずも笹部村の方が19世紀における「多田荘の平野神社の復活」と相成りました。

ともあれ、戦国期には「源満仲の末裔」と謳われ(荒木略記、高代寺日記)、「満」を通字とした「摂津・塩川氏」の拠点城郭跡の麓、「笹部」に、今も「平野神社」という名称の社が受け継がれていて、「だんじり祭り」などの祭事が行われていることは、様々な消長を経たものの、平安時代前半の京における「皇別八姓」の信仰が、「令和」の今日に生きているというわけで、これはちょっとした「奇跡」だとは思うのです。

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上の画像は「東谷ズム」ホームページから笹部の平野神社のだんじり祭の様子。

(つづく 2020.12.30 文責:中島康隆)






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