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【読書感想文】黒髪/近松秋江

前置き

前日の記事の繰り返しになってしまうので簡単に済ますが、これもまた、『饒舌録』の中で谷崎潤一郎が言及していた一編である。雨瀟瀟と黒髪、と並び立てられているのだから、やはりこちらも読んでおかねば片手落ちだろう。青空文庫で読める短編小説なので、気負わず読むことができる作品である。

『黒髪』

相変わらず作者や背景についての前知識は無い。特に、この近松秋江という人物名については、さっぱり聞き覚えがなく読み方さえも分からなかった。(ちかまつしゅうこう、と読む。「あきえ」ではない。)後から調べたところ、この『黒髪』という小説は情痴文学と呼ばれるジャンルに属するらしいのだが、そのいかがわしげな響きから連想されるようなシーンは特にない。

美しい女がいる。京都の遊女である。主人公はその女に大層惚れ込んでおり、身請けできないかと働きかけているが、のらりくらりとかわされはっきりとした返事をもらえないままやきもきと過ごす。話の内容としてはそんなところである。

この小説は、件の女がいかに美しく魅力的であるかということを描写していくところから始まる。その熱っぽさは女性の魅力だけでなく、語り手の、女に対する情念を強く伝えてくる。言葉を尽くして語らなければ気が済まないほどにその女を思い、また同時にそうやって語ることができるほどにまぶたの裏に強くその姿が焼き付いているのだろう。文章で説明された美しい女、というものは、読み手の頭の中にある美しい女の概念によって実体を持つ。ここでしっかりとその女に対する印象がつくられるからこそ、この美しい女に振り回される主人公を見守る心の準備ができるのだろう。

描写といえば、京都の情緒ある風景描写がとても良い。主人公は普段東京に住んでいるので、女と会うために汽車で京都にやってきて宿を取る。しかしそうやってわざわざ来ているにもかかわらず、あれこれと言い訳をされて待たされる。そうやって生まれた空白の時間というか、女のことを考えながらぼんやりしている時間を、京都の空気が穏やかに埋めていく。

障子を開放した前栽の方に足を投げ出してじっと心を澄ましていると、塀の外はすぐ円山公園につづく祇園社の入口に接近しているので、暖かい、ゆく春の宵を惜しんで、そぞろ歩きするらしい男女の高い笑い声が、さながら歓楽に溢れたように聞えてくるのである。

宿の外から祇園社の方へ向かう男女の声が聞こえる春の宵。生活感がありながら情緒があり、読んでいるだけでちょっとした旅行気分である。

また、前述したように、この小説は美しい女にやきもきする主人公の話である。愛する女を思う切なさや狂おしさが端々に語られるのだが、読者として客観的に見ているともうはっきり言って全然脈がない。身請けの話がどうなっているか聞くたびに「ここでは話せないから別の場所に来てくれ」と言われてはあちこちに行かされ、待たされている間女のことを考えてぐるぐると不安を募らせる様子はかわいそうでもありコミカルでもある。それでも、呼び出しをうけるたびに「もしかしたら今度こそは色よい返事をもらえるかもしれない」と思って女の元に行く主人公と共に、読者も「もしかしたら」と思いながら先を読み進めていった。そういう意味では、物語としての面白さもある小説だった。

まとめ

並記こそされていたが、永井荷風とは全く違う作風であり、面白かった。男と女の話ではあるが、ドロドロした情念のようなものはあまりなく、読み口はさっぱりしている。最後まで読んで拍子抜けする人もいるかもしれないが、なんとなくこの先を思わせる終わり方で個人的には嫌いじゃない。

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