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【読書感想文】雨瀟瀟/永井荷風

前置き

谷崎潤一郎が『饒舌録』の中で言及していた作品のうちの一編であり、言葉を綴るのが生業の人間が書いたのだから当然というべきか、その紹介の仕方が見事だったため興味を引かれた。曰く(以下要約)

写実的な小説は読む気が起きない、そういった身の回りのことや作家の経験を元にしたもので、嫌気がささず読めるような作品はめったにない。印象に残っているものといえば、永井荷風の『雨瀟瀟』近松秋江の『黒髪』くらいのものだ。(出典:後述*1)

私が普段読んでいる小説はSFやミステリといったいわゆるエンタメ小説で、話に起伏がない私小説にはあまり魅力を感じたことがなかった。(ここでは「エンタメ小説」と「私小説」という言葉を雑につかっているが、これについてはまさに谷崎と芥川の文芸論争で中心を占める話題なので今は聞き流して欲しい)しかし、まさにその話の筋を重んじる谷崎潤一郎が、印象に残っていると語る作品となると興味深い。そういうわけで、早速青空文庫にある『雨瀟瀟』を読んでみた次第である。

『雨瀟瀟』

そもそもこの小説の書かれた背景や、作者である永井荷風がどんな人物であるのか、といったことについての前知識はほとんど持たずに読んでいる。そういうのをいちいち調べることにすると何も読む気が起きなくなるからである。読書のハードルはできる限り下げたい(無料の青空文庫を選んでいるのもそういう理由である)。

この作品は筋らしい筋のない小説である。そのため、主人公が何をどうしてこうした、といったことをテキパキと把握していくという読み方より、紡がれる文字と言葉を追っていきその響きに身を沈めるような読み方が良いのではないかと思う。上品な言葉選びは声に出して読み上げたくなるものばかりである。

印象的だったのは、読点が少ないということだ。この文章も口語文、つまり喋るように書いている文章なのだが、そうすると言葉の調子を整えたり息継ぎをするために、こうして自然と読点を置く。しかし、この小説は一文が途切れなくさらさらと綴られており、ほとんど息を継ぐタイミングがない。一文を書き記した筆跡さえも一続きになっているのではないかと思うほどだ(原稿を見る機会があったら確かめてみたい)。それはつまり文語的ということなのかもしれないが、読んでいるとむしろ逆の印象を覚える。つまり、立て板に水を流すように喋る噺家のような、プロフェッショナルの口語文という感じがするのだ。

わたしはもうこの先二度と妻を持ち妾を蓄え奴婢を使い家畜を飼い庭には花窓には小鳥縁先には金魚を飼いなぞした装飾に富んだ生活を繰返す事は出来ないであろう。

「妻を持ち妾を蓄え奴婢を使い家畜を飼い庭には花窓には小鳥縁先には金魚を飼いなぞした」この一連の畳みかけるようなリズム感、もはやラップである。もちろんそこにある韻文のようなテンポはおそらくその後にも幾度となく引用される漢詩などに由来する詩歌のリズム感なのではないかと思うが、ともかくこの(冒頭近くにある)文章を読んだときに、「面白い」と思った。

この小説は、口語文で語られる地の文(と台詞)と、文語文で綴られた手紙、そして複数の漢詩と、一編のフランス詩という複数の形態の文章がスクラップブックのように組み合わされてできている。また、地の文の中にもことわざのように漢詩の一節が引用されていて、作者、あるいはこれを読み下すことができた(実際これを読める人間がどれくらいいたのかは分からないが)当時の人間の教養の高さを感じる。

引用されている漢詩については、正直読めない。返り点や送り仮名はついているが、フリガナがないため漢字が読めない。漢字が読めないので意味もあまりよく分からない。どうやら底本には解説が付属しているらしいのだが、そこは無料版の悲しさである。ただ、慣れ親しんだ書物に既に語られている言い回しを引用することによって自分の今の気持ちと重ね合わせる、という行為自体はそれほど縁遠いことでもないだろう。その気持ちはなんとなく分かる気がする。

まとめ

筋がない小説というものをこれまで敬遠していたのは、小説の面白さとは筋だけに存在すると思っていたからである。けれど、文学とは筋だけで出来ているわけではない。この作品は、流麗な言葉遣いをなぞっていくこともまた、豊かな文学体験であるということを知る機会となった。同作家の別の作品も、いずれ読んでみたいと思う。

*1:(谷崎潤一郎 饒舌録『改造(昭二・二月号)』)
千葉俊二(編)(2017).文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録ほか 芥川vs.谷崎論争 講談社文芸文庫

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