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またどこかで会えるって信じている。

お久しぶりです。先日、自分の気持ちに区切りをつける節目がやってきました。今回はこの件について書いていこうと思います。

日の入りが一番早くなったある秋の日のことでした。私は受け止めきれない現実を突きつけられます。
「職場で親しく接してくれた、大好きな先輩が退職する。」
この事実を知ってしまった時、私は涙を堪えきれませんでした。

その時にこのつぶやきをしました。

涙が止まらなかった上にショックで1日ほど食欲がなくなりました。辛くて仕方なくて、その方とは別の先輩に泣きながらこの気持ちを吐露しました。先輩は優しく話を聞いていただきました。(この先輩の話もまたどこかで出来たらいいなと思います。)行かないで欲しい。けど引き止めたくない。この先の人生で幸せになってほしい。今の居場所を離れてしまう誰かに対して、複雑な感情を抱いたのはすごく久しぶりでした。それだけ先輩に対して私の中で思うことがあったのかなぁとふと思い返しています。

どうしてそんなに先輩が離れることが寂しいんだろうと考えたら、たくさん理由が見つかりました。

実は、私は今の職場で働き始めてまだ1年も経っていません。そんな期待と不安の中、先輩と出会いました。先輩は私にすごく気さくに話しかけてくださって、私が困っている時にたくさん何度も何度も優しい言葉をかけてくださいました。その時の言葉も心が暖かくなるくらい素敵で、私も先輩みたいに、将来、困っている人に手を差し伸べられるような優しい人になりたいといつしか思うようになりました。
それだけじゃなくて、お昼を一緒に食べたり、一緒に帰ったりする機会も幸運なことに何度もありました。(最近はあまり無かったので寂しかったですが…)
職場の中に居場所が出来た感覚がして、先輩後輩という関係性でありながらも友達やきょうだいのような存在にも感じていました。

それから、先輩ののんびりとした生き方に憧れていました。今でもそれは変わらずにずっとそうです。

のんびりとした生き方というのは、この記事で少し具体的に触れています。
(ちょーーーっと引用します!)


それに気づけたのは、この一件で、不意に傷ついてしまったことを職場の親しい方に漏らした時だった。「自分だってそう言われることもあるけど、もうこういう性格だって開き直っちゃってるよ」その人は笑いながら言った。ハッとした。そっか、わたしはわたしでいいのか。妙に納得した。その人も、どちらかといえばのんびり生きているような人だ。そうやって言うってことは、過去に似たような経験があったんだろう。その人はありのままの自分を受け止めて受け入れて生きていくことで、自分を強くしているのだろう。自分の性格を理解し、自分自身が受容していく。のんびり生きているわたしのままでもいいのかなと思えた。

(文中に登場する“職場の親しい方”。この人こそが、退職することになった先輩です。)
(この記事を書いた当時はまだその先輩が退職するとは夢にも思っていなかった)

自分の生まれ持った性格を受け入れることで強く生きているような生き方だったり、どんなに忙しくても急な対応があっても焦らずに落ち着いて対処する姿だったり、のんびりとした中にも凛とした強さが垣間見えました。
先輩のそういうところにすごく憧れています。

私は生まれつき急な対応が苦手な方ですぐに戸惑うことが多く、仕事中にもそれが起因の悩みが幾度となく発生しました。その度に、苦しくて先輩を何度も頼りました。その時も「まずは落ち着いて」「1つずつやっていけば大丈夫だよ」「難しく考えすぎないで気楽にやれば平気だよ」と優しくサポートしてくださいました。
どうしたら先輩のような考え方になれるんだろうなと、一緒に働いている期間中しばしば考えました。私も先輩のようにどっしりとした人になりたいです。
職場から先輩が去ってしまったあとも、困った時はその言葉を反芻しながら落ち着けるようになりたいです。

またそれだけではなく、先輩と一緒に働けた期間の中で、書ききれないほど思い出が出来ました。些細な会話も思い出として色濃く残っています。
食べ物の好みがあまり合わなかったこと、芸人さん(特にかまいたち)が好きなこと(私もお笑い番組を見ることがすごく好きなので共通の話題で盛り上がりました)、お互い胃腸が弱いことなどなど、挙げればキリがないくらいです。お昼を一緒に食べたと先程記述しましたが、好みが合わなかった故に、お互いの苦手なメニューを交換しあって食べたのも良き思い出です。
歳はだいぶ離れているのにこんなに気さくに話しかけてくれて会話も弾むので、先輩と会えた時に雑談をすることもいつの間にか楽しみの一つとなっていました。

ところで、寂しい感情はどうして生まれるのでしょうか。私は学生時代が終わってしまうタイミングでその理由に気づきました。
同じ場所を歩んできた仲間が岐路に立つことで、その後の人生を見届けることが現在よりも難しくなるからなのではないかと。
今何をしているんだろうとふと思い返しても、記憶の中の相手は一緒に過ごした時のまま止まっている。変化があったのかそうではないのか知りたいのになかなか会えないから一緒に過ごせた時間の儚さを突きつけられてしまう。
これが人を寂しくさせてしまう原因ではないかと私は思いました。
先輩とは分かれ道を進んだ後でも、どう生きているのかを知り合えるような関係でいたいけれど、どうなんだろう。不確かだから、またそれも寂しいなとどうも感情的になります。
叶うならお互いに歳をとってからも再会したいと私は強く願っています。

話を戻します。そしてつい先日、先輩は最後の出勤を終えました。未だに実感がわきません。
私は以前、先輩から「自分が寂しくても退職する人のことは暖かく送り出してあげるのがいいと思うよ」と言われました。だからその日を迎えるまで、「さいごまで明るく、涙は見せずに、引き止めないで先輩を送り出す」ということを目標にしていました。
最後の出勤の時、私はずっと先輩に渡そうと決めていたプレゼントを渡しました🎁 今までお疲れ様でした&ありがとうございましたといいながら渡しました。喜んでくれたら嬉しいです。その時にも少しお話をする機会があったのですが、私は終始涙を見せずに、いつも通りの笑顔で先輩を送り出すことが出来ました✌️😊
先輩も新しい人生の門出なので、いつもに増して、どこか吹っ切れたような安堵に満ちたような雰囲気を纏っていました。

今の職場を選んだから、退職する前の先輩と出会えた。割り振られた配属先が同じだったから、話すきっかけがたくさんできた。
偶然や選択の積み重ねで、私にとって凄く大切な人に出会うことが出来ました。縁とは凄いものだなと思います。もう少しお互いのタイミングがずれていたら、私は先輩の存在を知ることが出来なかったので……。
この先の日常は離れ離れになるけれど先輩の存在を忘れずに生きていたいです。

とにかく今は、寂しいけれど、「生きたいと思う理由がひとつ増えた気がする」と思っています。たとえ道は離れ離れになっても、生きてさえいればまた会えるかもしれないから。だからいつか再会できることをどこかで期待しつつ、毎日を生きていたいです。
またどこかで会えたら声をかけたいです。(やめてねって拒否られたのでそっとしておきますが)

先輩、今までありがとうございました💐
先輩の無事を祈ります。どうかお元気で!



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