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② 第1章 「風雲!東映誕生」

第2節「東映誕生を導く軍師 根岸寛一 前編

 マキノ満男の父、牧野省三は、舞台劇歌舞伎調の旧劇ではない、映画らしい新しい時代劇を模索し、尾上松之助の日活から独立、等持院に撮影所を作りました。

 しかし、経営資金に苦しみ、八千代生命子会社東亜キネマと組んだものの、徐々に対立を深めていたその時、彼が目を付けたのがリアルな立ち回り、剣劇として評判の沢田正二郎率いる新国劇です。

 そして、牧野が頼ったのが、後に直木賞として名の残る作家直木三十五でした。

 1924年(大正13年)、震災の東京を離れ、直木は大阪のプラトン社に川口松太郎、挿絵画家岩田専太郎とともに勤めており、当時のまだ売れていない直木三十三時代の作品「心中雲母坂」を、牧野は阪東妻三郎主演「雲母阪」として映画化しました。

 そこで知り合った直木と牧野は意気投合、それから野心家直木は牧野の家に転がり込み、その居候、直木三十三に牧野は沢田正二郎の紹介をお願いしたのです。

 直木は新国劇で舞台化された劇作家岡栄一郎の協力も得て沢田を動かし、牧野は自ら監督、沢田主演で「国定忠次」「恩讐の彼方に」と続けて公開、大評判をとります。

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1924年東亜キネマ「国定忠治」牧野省三監督沢田正二郎主演

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1924年東亜キネマ「恩讐の彼方に」牧野省三監督沢田正二郎主演

 その成功を見た直木は牧野省三の支援で東京の根岸興行部立花寛一根岸寛一)と「連合映画芸術家協会」を設立、映画界に本格的に参入するのです。

 この組織には文芸部に菊池寛里見弴久米正雄白井喬二岡栄一郎、演技部に新国劇沢田正二郎とその一党、春秋座市川猿之助一座、澤村長十郎一座、曾我廼家五九郎一座、舞踊家石井漠、新劇協会他、装置部に志賀直哉の弟志賀直三、監督部に久米正雄、根岸の義兄となる劇作家高田保、そして牧野省三という文学界、演劇界、映画界を代表する錚々たるメンバーが参加しました。

 根岸は浅草の大興行会社根岸興行部代表小泉丑治の甥で、小泉次女の婿になり、小泉長男吉之助とともに浅草オペラブームに貢献しましたが、劇場が関東大震災で大打撃を受け、上方の松竹傘下になり、根岸は鎌倉の小さな別宅に引っ込みました。

 そこで、根岸は作家としての新たな道を求め、久米正雄をはじめとする鎌倉文士たちと付き合いを深めていきます。その中で大阪の直木と意気投合、映画界に接しそこに可能性を見た直木の誘いを受け、牧野省三の支援で連合映画芸術家協会の設立にいたったのです。

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若き日の根岸寛一

 そして、連合映画芸術家協会は第1回作品として沢田正二郎主演マキノ所属衣笠貞之助監督作品「月形半平太」を1925年(大正14年)5月に公開します。

 撮影には牧野省三が全面的に協力し、東亜等持院撮影所を提供する予定でしたが、火災で撮影所のグラスステージが全焼、隣の等持院を使って撮影されました。

 配給は、根岸がもともとの関東の興行界のつながりを活かし、マキノ映画関東配給所(関東社)を坂間好之助と作り、関東以北の配給を引き受け、中部を竹本武夫、関西以西を東亜から独立した立花良介が受け持ち、「月形半平太」は記録的大ヒットをとばし、チャンバラブーム、時代劇ブームの口火を切ります。

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1925年連合映画芸術家協会「月形半平太」衣笠貞之助監督沢田正二郎主演

 しかし、この「月形半平太」配給をめぐり、直前まで交渉していた東亜キネマと紛争が起こり、それもあって、6月、牧野省三も東亜から独立、御室天授ヶ丘にマキノ・プロダクション御室撮影所を創立するに至ります。

 これに対し、日活、松竹、帝キネ、東亜の大手映画会社四社はマキノ他中小製作プロダクションを映画興行から締め出すべく四社連盟を組み対抗しました。

マキノ御室撮影所_009

マキノ御室撮影所

 映画業界の改革を目指して立ち上がった連合映画芸術家協会は、次に、「月形半平太」の利益をつぎ込んで、歌舞伎界の改革者・澤瀉屋二代目市川猿之助を主演に衣笠貞之助監督「日輪」を製作しましたが、当局の検閲、右翼からの強い抗議、四社連盟による抵抗もあり上映中止に至り失敗、大きな借金が残りました。

 その後は負の連鎖により、製作の度、借金が膨らみ、1927年(昭和2年)に夢破れて解散、直木は捨て台詞を残して映画界を去りました。

 後に直木は大衆作家として人気を高め、「黄門廻国記」「南国太平記」など、次々と大ヒット映画の原作となる作品を生み出しましたが、1934年(昭和9年)43才という若さで亡くなります。

 翌1935年、文芸春秋社社長菊池寛によって大衆文学を対象とする文学賞「直木三十五賞」が作られ、第1回はその業績により川口松太郎が受賞しました。

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1925年連合映画芸術家協会「日輪」衣笠貞之助監督市川猿之助主演

 連合協会は、苦しい台所事情の中、菊池寛原作「第二の接吻」の改題作品「京子と倭子」を厳しい予算に苦労しながら「伊藤映画研究所」伊藤大輔監督主演吉村哲也で製作、日活阿部豊監督岡田時彦・岡田嘉子主演、松竹清水宏監督鈴木伝明主演、大会社作品との競作に打ち勝ち、高い評価を得たことが救いでした。

 また、マキノを離れた衣笠監督は「日輪」で横光利一との関係ができたことにより、川端康成他新感覚派の作家たちと「新感覚派映画連盟」を結成、アヴァンギャルド映画「狂った一頁」を製作、西洋で高い評価を得ました。二人の監督はその後日本を代表する名監督となっていきます。

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1926年新感覚派映画連盟「狂った一頁」衣笠貞之助監督井上正夫主演 

 一方、牧野省三率いるマキノ・プロダクション阪東妻三郎市川右太衛門月形龍之介片岡千恵蔵嵐寛寿郎と次々とスターを生み出し、根岸の作った関東社は四社に対抗、火災や牧野省三の死去などでマキノが倒産するまで興行で支えました。ただ、根岸自身はこの連合協会の失敗で大きな負債を抱えることになり、この借金は満映から帰国、敗戦にいたるまで根岸から離れませんでした。

 牧野省三根岸寛一。二人は大きな借金を背負いながら、日本映画界の既成システムの変革を目指し闘った同志でした。彼らの導きと経験を糧に日本映画界はその後の成長を遂げたのです。