㊼ 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第3節「東映ギャング映画」
1897年、稲畑勝太郎が日本で初めてシネマトグラフを公開した年の10月、小西写真機店はフランスより映画撮影用ゴーモン・カメラとフィルムを輸入しました。その2年後の1899年、興行師駒田好洋からの注文で小西の社員浅野四郎は、新橋や柳橋など東京の人気芸者の舞踊を撮影、駒田は6月、東京歌舞伎座にてまとめて興行上映します。
その後、カメラは駒田に譲渡され、9月、当時世間を騒がせた稲妻強盗・清水定吉逮捕の場面を新演劇俳優横山運平が刑事役を演じ、カメラマン柴田常吉が撮影しました。後に『ピストル強盗清水定吉』と名づけられたこの短編は、犯罪者を逮捕する刑事物映画であり、日本で初めて俳優が演じた劇映画、主役の横山運平は日本初の映画俳優と言われています。
この後、刑事や探偵が犯罪者を捕らえる刑事物探偵物劇映画が数多く日本で作られました。
戦後創設された東横映画では、当時時代劇がGHQによって制限されていたため、片岡千恵蔵主演、松田定次監督で探偵物『三本指の男』、刑事物『にっぽんGメン』などを製作、人気を呼びます。
そして1950年、片岡に対抗して、市川右太衛門が強盗団の首領を演じたギャング映画『戦慄』関川秀雄監督が作られました。
1951年、新たに誕生した東映の社長に就任した大川博は、健全娯楽映画作りを標榜し、マキノ光雄を中心に勧善懲悪物、刑事物、青春物などを作り、次郎長や股旅物などやくざを主人公に描く場合でも、勧善懲悪スタイルは崩しませんでした。
1957年4月の『地獄岬の復讐』小林恒夫監督から始まった、『地獄』がタイトルにつく一連の作品は、片岡千恵蔵が潜入捜査官などに扮し、ギャング組織と戦うシリーズで、1964年1月の『地獄命令』小沢茂弘監督まで全9作を数える人気シリーズとなりました。
反社会的勢力や犯罪者集団が主役として登場する現代劇がギャング映画です。
1959年頃から現代劇の主人公に暴力団やチンピラが登場し始めます。
1961年2月、社長の大川博は、第二東映の成績不振により名称をニュー東映と改称、東撮所長に企画本部長の坪井与、京撮所長に岡田茂を任命しました。
坪井は、解散間近の新東宝から石井輝男監督を招き、高倉健、鶴田浩二を主演に、初めてギャングをタイトルに入れた『花と嵐とギャング』を製作。ここから、悪党が主役の東映ギャング映画が始まりました。続いて、若手の深作欣二監督で、新東宝から移籍の丹波哲郎を主演に『白昼の無頼漢』を企画します。
1961年9月、組合からの突き上げなどもあり、ニュー東映事業からの撤退を決めた大川博は、東撮所長に岡田茂、京撮所長に山崎真一郎(翌年1月高橋勇に交代)を就任させると映画企画を両撮所長に委ねました。
岡田茂は、坪井が敷いたギャング路線をより過激に推進します。片岡千恵蔵の『地獄』シリーズも、12月公開の6作目『地獄の底をぶち破れ』佐々木康監督、翌1962年8月の7作目『地獄の裁きは俺がする』佐々木康監督、9作目『地獄命令』小沢茂弘監督は、主役千恵蔵がそれまでの潜入刑事や堅気の主人公から変わって、やくざの大幹部を演じるギャング映画になりました。
岡田茂は監督では石井輝男、深作欣二、小沢茂弘、俳優では高倉健、鶴田浩二、丹波哲郎を柱としてギャング映画を量産、堅調なヒットを重ね東撮にドル箱路線を確立しました。
石井輝男
1942年、東宝に撮影助手として入社した石井輝男は、戦後、東宝争議によって誕生した新東宝に参加するとともに助監督として渡辺邦男、成瀬巳喜男、清水宏などの名監督につきました。
1957年4月、宇津井健主演で『リングの王者 栄光の世界』を初監督すると続いて7月、宇津井主演『鋼鉄の巨人』スーパージャイアンツシリーズの監督を務めます。
1958年4月には宇津井主演の潜入捜査物『女体桟橋』、9月『白線秘密地帯』、その後も1960年1月天地茂主演『黒線地帯』、4月吉田輝雄主演『黄線地帯』、1961年1月吉田主演『セクシー地帯』、5月吉田主演『火線地帯』とセクシー女優三原葉子出演の新東宝地帯シリーズの監督として活躍しました。
1961年春、石井輝男は倒産間近の新東宝を離れ、東映と専属契約を結び、6月公開、ニュー東映公開の『花と嵐とギャング』を監督します。そこから、翌年3月『恋と太陽とギャング』、7月『ギャング対ギャング』、1963年1月『暗黒街の顔役 十一人のギャング』、2月『ギャング対Gメン 集団金庫破り』、1964年1月『東京ギャング対香港ギャング』と、ギャングをタイトルに入れた映画を次々に監督、深作欣二と共に東撮ギャング路線の中心を担いました。
高倉健主演で1963年6月『親分を倒せ』、1964年4月『ならず者』など悪党映画を監督した石井輝男は、京撮で大川橋蔵主演の白浪物時代劇『御金蔵破り』を担当した後、東撮で1965年4月、高倉健主演『網走番外地』を演出すると高倉健の歌う主題歌と共に大ヒット、東映を支える大ヒットシリーズとなります。
深作欣二
1953年、日大芸術学部卒業後、東映に入社した深作欣二は、東京撮影所に配属され、サード助監督として小石栄一監督『暗黒街の脱走』から映画人生をスタートしました。
東撮でセカンド、チーフ助監督とキャリアを積んだ深作は、1960年4月の東映社内報で新入社員に向けて、映画作りでの「体力と実行力」の必要性を語ります。
1961年6月、深作の監督デビュー作、千葉真一主演『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』と、同時に撮影された『風来坊探偵 岬を渡る黒い風』が、ニュー東映系で続けて公開されました。
激しいアクションがテンポ良く展開される作品は、ニュー東映と言う名前にふさわしい、これまでの東映にない現代的センスが評価され、続けて千葉主演で『ファンキーハットの快男児』『ファンキーハットの快男児 2千万円の腕』と監督します。
11月にニュー東映で丹波哲郎主演『白昼の無頼漢』、翌1962年3月、東映で鶴田浩二主演『誇り高き挑戦』を監督した深作は、11月、石井輝男のギャングシリーズを継いで鶴田浩二主演『ギャング対Gメン』、1963年7月内田良平主演『ギャング同盟』を演出しました。
1964年8月、深作は高倉健主演で『狼と豚と人間』を監督。スラムで育ったヤクザとヒモとチンピラの三兄弟が麻薬と金を巡って殺し合う、勧善懲悪ではない悪党映画を演出しました。
小沢茂弘
日大芸術科、松竹から1947年にマキノ光雄の東横映画へ移り、暴れん坊助監督としてマキノ雅弘や渡辺邦男、稲垣浩など娯楽映画の名監督に付きます。
1954年6月、大友柳太朗主演『追撃三十騎』で監督デビューすると、京撮時代劇ばかりでなく東撮でも刑事物など数多くのプログラムピクチャーを担当しました。
小沢は片岡千恵蔵、市川右太衛門、両御大に気に入られ、両撮で数多くの御大作品を監督します。
特に東撮で松田定次監督の後を継いだ片岡千恵蔵『地獄』シリーズ、ニュー東映で千恵蔵が主演した『無宿者』シリーズは大ヒットを飛ばしました。
『地獄』シリーズ以外のギャング映画では、1963年10月、これも千恵蔵主演の『ギャング忠臣蔵』を監督します。
東撮で片岡千恵蔵映画を担当し、ヒット作品を生み出した小沢茂弘は、京撮で松田定次監督が天皇と呼ばれたように、この時、東撮では小沢天皇と呼ばれました。
1964年1月に公開した『地獄指令』が失敗に終わり、『地獄』シリーズが終了。2月に、岡田茂が東撮所長から京撮所長に異動し、東映プログラムピクチャーの名手・小沢茂弘も東撮から離れ、京撮で岡田の命を受け、鶴田浩二主演の任侠映画『博徒』を担当します。
この映画が7月に公開されると大ヒットし鶴田浩二主演『博徒』シリーズとしてこの後京撮任侠映画を支える柱の一つとなりました。
坪井与が始めた東撮ギャング映画は、岡田茂が受け継ぎ、東撮のドル箱となり、東映映画全体の方向が、大川博が目指した健全娯楽路線から岡田茂が進める反社会勢力が主役の不良性感度の高い娯楽路線へと変わるターニングポイントとなったのでした。