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⑦ 第2章 「激闘1826日!東映発進」

第1節「経理社長から事業社長へ 明日を見ていた大川博 経営再建篇」

 小林一三は鉄道事業というハードビジネスを基盤に、鉄道の安定収入を目指し、鉄道を常に利用する沿線住民を増やすために住宅を建設し、月賦で分譲しました。そしてターミナル駅に百貨店、その周辺にホテル、劇場、映画館などを作り、郊外駅には動物園、温泉、野球場、ゴルフ場、遊園地などの娯楽施設や学校なども創設、沿線住民が快適に暮らせるための、日本初となる駅に紐づいたソフトビジネスを次々と開発し、鉄道事業のビジネスモデルを確立します。その結果、駅を中心とした都市文化が育まれ、その中でも、宝塚歌劇と映画演劇の東宝は日本を代表するエンターテインメント会社になりました。

 そんな小林は事業経営において「何が根本か?」「経費を落とすこと」「無理は禁物」を常に考えていました。映画事業については高村正次との宝塚キネマ以来、製作については常に慎重に構え、「映画館百館主義の興行者」という直営映画館を重視する方針で、五島慶太や永田雅一には映画製作を勧め、自らは駅近一等地での直営映画館拡大を進めて行き、そこで歌舞伎以来の大興行会社松竹と激突していくのでした。

 小林が作り上げた、鉄道を基盤に街づくりを進め、そこから住民のための娯楽ビジネスを生み出す鉄道事業スキームを引き継ぎ、関東鉄道事業大きく展開した人物が、小林のライバルとも言われた五島慶太で、五島は事業経営において「予算即決算主義」で「経営の合理化と経費の削減」をめざし、「大学誘致支援」など「文化事業拡大」で電鉄経営の安定をはかりました。

 戦後、五島は小林に続けと東横映画を設立し映画界への新規参入を試みます。しかし、東宝、松竹、大映の壁は厚く、映画事業経営は困難を極め、公職追放中の身であることもあり、五島の懐刀で、鉄道省出身経理のスペシャリスト、東急電鉄専務の大川博に、五島は私財を賭けて映画事業を託し、五島の願いを受けた大川は、経理マンとして、五島譲りの「経営の合理化」と「予算即決算主義」を武器に映画界に乗り込みます。

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 1951年5月1日発行 東映「社報」第1号より

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東映初配給作品 1951年4月公開「無国籍者」市川崑監督・上原謙主演

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東映東京初製作作品 1951年5月公開「風雲児」萩原遼監督・龍崎一郎主演

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東映京都初製作作品 1951年6月公開「にっぽんGメン不敵なる逆襲」佐伯清監督・片岡千恵蔵主演 

 1951年4月1日、東映誕生、大川は社長就任の第一日目に机の上に置かれた123枚の「不渡り寸前の振出手形の処理」を手始めに、残る10億円もの負債問題に立ち向かい、まずはやっかいな「高利貸し征伐」に乗り出しました。

 そして、高利貸しと懸命の交渉を行い、五島の支援などによって、高利貸しからの借金を銀行の融資に切り替えることができ、同時に、これまで良い作品作りを行うという名目でアバウトに行われていた映画製作への徹底した予算管理を断行します。そして、それまで東宝と行っていた配給提携も、作品カラーの違いから東宝系映画館での上映が滞り、東宝傘下に入るか、提携中止か、の判断を迫られた大川は、東宝との提携を断念し、1952年正月から系列館で上映する全プログラムを自社で賄う、独立独歩の映画会社となることを決断しました。

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 1952年4月に大川は、会社の信用を高め、将来を担う人材確保をめざし、社員定期採用制度を導入、第1期社員25名が入社しました。

 10月には五島慶太を取締役に迎えるとともに、マキノ満男を常務に昇進させ、これまで東西撮影所で行っていた映画企画を本社に企画本部を作ってそこに集約し、マキノを企画本部長に任命、映画企画製作の全責任をマキノにもたせることで奮起を促し、11月には念願の東証上場を果たして企業としての社格も整えていきました。

 翌1953年の年頭に経営方針を発表した後、正月番組、片岡千恵蔵の「喧嘩笠」が東映始まって以来のヒット、勢いに乗って、翌週公開のマキノが企画本部長として強く推進した「ひめゆりの塔」が、「喧嘩笠」を大きく上回る大ヒットを飛ばし、ようやく東映に明るい兆しが見えてきます。

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東映京都作品 1953年1月公開「喧嘩笠」萩原遼監督・片岡千恵蔵主演

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東映東京作品 1953年1月公開「ひめゆりの塔」今井正監督・津島恵子主演

 全社一丸となって、会社生命を賭けた必死の奮闘の甲斐あって、時代劇を中心とした映画人気の拡大、東撮作品のヒット、徹底した経費の削減もあって、徐々に利益確保が進み、収支は上向き、目の前にある空前の経営危機をなんとか乗り切ることができました。

 1953年4月、負債退治にひと段落した大川は、マキノを伴い、2か月にわたる初の海外出張に出かけ、欧米で進んでいる、映画・テレビ事業の最先端の姿を視察、その経験は大川を大いに刺激し、経理社長から事業社長にかわるきっかけとなります。

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 1953年4月 出国時 東映「社報」第13号より

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 1953年6月 帰国時 東映「社報」第14号より

 その間行動を共にしたマキノともじっくり話し合い、帰国後、外遊の成果を入れて、営業、製作体制の強化を目指し、専属俳優強化と養成機関の設置興行面の強化機器の整備と技術の向上輸出振興など将来を見据えた経営方針を決定し、さっそく実行に取り掛かりました。

 まずは8月に第1回ニューフェイス募集を全国的に行い、男女合わせて21名を選び、半年にわたる俳優座での基礎訓練の後、東西撮影所に配属、翌年から毎年募集を続け、中原ひとみ高倉健里見浩太郎佐久間良子山城新伍梅宮辰夫千葉真一など主役ばかりでなく山本麟一今井健二室田日出男曽根晴美など脇役においても長きにわたり東映を支える俳優が数多くここから生まれます。

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1959年 右から2番目曽根晴美、4番目水木襄、5番目梅宮辰夫

 10月には資本を増強し、映画事業の基本は興行にありとする東宝松竹の興行網に対抗するべく、渋谷をはじめ大阪、名古屋、福岡など主要都市に直営館建設、弘前、水戸など日本全国に直営館網を張り巡らし、同時に専門館、契約館の拡大に向けて、各支社の営業強化し、この施策は1956年から長きにわたる東映映画配収日本一に貢献しました。

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1953年11月18日 直営モデル劇場「渋谷東映」開館 「社報」号外より

 また、アメリカで最も衝撃を受けたテレビの普及がやがて日本にもやってくると確信した大川は、日本でのテレビ事業へのいち早い参入を図るとともに、映画事業者としてテレビに対抗する映画施策を検討し、アメリカで普及し日本では松竹が先行していた総天然色映画、アメリカで開発中で日本ではまだ未公開のワイドスクリーンによる大型映画技術の輸入、この二つの実施に積極的に取り組むことを決め、まずは、初めてのカラー映画撮影の試行錯誤による厳しいスケジュールと予算不足に苦しみながらも、11月の渋谷東映こけら落としにあわせて、片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介で͡、国産のコニカラーシステムによる東映初総天然色映画「日輪」にチャレンジし、なんとか公開にこぎつけることができました。

日輪ポスター

東映初総天然色京都作品 1953年11月公開「日輪」渡辺邦男監督・片岡千恵蔵主演  

 そして、アメリカの興行状況をつぶさに観察し、封切りロードショーを除いて二本立て興行が主流であることを見て、後発組である東映が興行界に参入するために、製作を強化して本数を増加し、翌年正月からの東映作品単独二本立て興行に踏み切る決断を行い実施、大成功の結果、東映専門館数、契約館数とも全国で加速度的に拡大していくことになります。

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東映初娯楽版京都作品 1954年1月公開「真田十勇士 忍術猿飛佐助」河野寿一監督・大友柳太郎主演

 輸出振興としては、当時まだ海外だった沖縄の琉球貿易と全プロ輸出契約を結び、日系人が数多く住むハワイの合同娯楽株式会社と年間百本を超える輸出契約も結ぶことができました。

 欧米の視察から、テレビの普及を確信する大川博は、これからの東映は映画事業だけに頼るのではなく、事業の多角化を進めて行く必要があることを痛感し、事業家として明日を見据えて様々な事業に積極的にチャレンジ、行動して行くのでした。

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乾杯! 片岡千恵蔵      大川博       市川右太衛門