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㊵ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第6節「大日本映画党 演劇俳優陣 春秋座・前進座」

 1955年、他の東映映画とテイストが違う、『歌舞伎十八番鳴神 美女と怪龍』が東千代之介主演で公開されました。

1955年歌舞伎十八番鳴神 美女と怪竜吉村公三郎監督・鳴神上人

1955年『歌舞伎十八番鳴神 美女と怪竜』吉村公三郎監督

 監督は吉村公三郎、脚本は新藤兼人。参考資料や衣装・小道具つけ帖が作られるなど、大変力の入った作品で、第29回キネマ旬報ベストテンの第10位に選ばれています。 

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 この映画は、前進座創立25周年記念として製作されたもので、鳴神上人役に前進座座頭・四世河原崎長十郎が出演、鳴神は長十郎の当たり役で、五世河原崎国太郎など前進座一門が出演しました。

 今回は歌舞伎界の革命児、二世市川猿之助春秋座四世河原崎長十郎三世中村翫右衛門(かんえもん)前進座をご紹介します。

市川猿之助と春秋座

 市川猿之助は、初世猿之助の長男に生まれ、1892年、亡くなった九世市川團十郎に入門、市川團子として初舞台を踏みました。

 1908年二世市川左團次が立ち上げた自由劇場参加、新劇にチャレンジし、翌1909年二世市川猿之助襲名します。1919年には欧米の演劇を視察すると翌1920年にその成果を持って春秋座を設立、イプセン『野鴨』や菊池寛の『父帰る』などを上演しました。

 1925年には、マキノプロダクション牧野省三が指揮を執り、直木三十五が主宰する聯合映畫藝術家協會と組んで挑んだ横光利一原作、衣笠貞之助監督『日輪』、翌年同協會と春秋座の共同製作でマキノ・衣笠共同監督『天一坊と伊賀亮』に主演、1928年、新派の喜多村緑郎を一座に入れるなど精力的に歌舞伎界に新風を吹き込みます。

1925年マキノ聯合映畫藝術家協會『日輪』衣笠貞之助監督・奴国の貴族長羅役

1925年マキノ・聯合映畫藝術家協會『日輪』衣笠貞之助監督・貴族長羅役

1926年聯合映畫藝術家協會・春秋座『天一坊と伊賀亮』牧野省三・衣笠貞之助監督・天一坊伊賀亮役

1926年聯合映畫藝術家協會・春秋座『天一坊と伊賀亮』牧野省三・衣笠貞之助監督・天一坊伊賀亮役

 猿之助は、俳優協会の等級(1895年制定)では、当時、一等の五世中村歌右衛門十五世市川羽左衛門、二等六世尾上菊五郎に次ぐ三等でしたが、人気では歌舞伎界で随一の千両役者となります(長十郎、翫右衛門は六等)。

 1929年、世界恐慌がはじまり、歌舞伎の世界にも影響が出始め、松竹の俳優合理化・減俸問題が起こりました。

 進取の精神にあふれる反骨の人、市川猿之助は、苦しむ俳優たちの声を受け、河原崎長十郎中村翫右衛門たちと優志会を結成、会長として会社との交渉に臨みますが、会社の姿勢は固く、優志会の解散を求められ松竹脱退、翌1931年1月長十郎翫右衛門猿之助の弟市川笑猿(初世市川壽猿)八百蔵八世市川中車)、小太夫の三人に左團次一門から市川左升二世市川荒次郎も加わり、市村座で春秋座を再度旗上げます。

 旗揚げ公演には、新築地劇団から杉村春子も参加、右翼からの脅しにも負けず土方与志演出『アジアの嵐』、翫右衛門演出『踊り試合』、長十郎演出『河童又介』を上演、主演は三作とも猿之助。超満員の客が集まり、千秋楽まで満員が続きました。

四世河原崎長十郎と三世中村翫右衛門

 新富町河原崎座の座元河原崎権之助の末っ子河原崎長十郎は、四世を継いだ後、1918年、二世市川左團次一座に加入し小山内薫の薫陶を受けます。1925年には村山知義今日出海佐々木高丸市川笑猿らと劇団 心座を結成、1928年には左團次一座にてソ連モスクワで歌舞伎公演を行い、共産主義に傾いていきました。

 浅草橋の柳盛座の座頭初世中村梅雀二世中村翫右衛門)は、芝居小屋の不振で長男初世中村歌門三世中村仲助)、次男三世中村梅之助ともども五世中村歌右衛門の門に入り、1920年に梅之助三世中村翫右衛門を襲名します。

 1929年、翫右衛門、長十郎、笑猿、八百蔵、小太夫は五人の会を結成、長十郎の紹介で村山知義を呼び勉強会などを行い、10月、五人の会の協力のもと翫右衛門は「俳優の編集せる、俳優唯一の機関誌」『劇戦』を親友中村亀松四世中村鶴蔵)と刊行、歌舞伎界における世襲制度などに対する問題提起は大きな反響を呼び、11月、師の歌右衛門から破門宣告を受けました。

 翌1930年1月下旬、本郷座にて、左翼劇場佐野碩脚本演出『スパイ』と佐々木孝丸脚本演出『筑波秘録』の二本立てで、心座の長十郎を除く四人を中心に大衆座を旗揚げし、『劇戦』も号を重ねて行きます。

 そして、優志会、五人の会と、猿之助兄弟と行動を共にしながら理想の演劇団体設立を目指し、長十郎と翫右衛門も松竹を脱退、1931年正月、猿之助を頭に春秋座を立ち上げました。

前進座設立

 大成功の旗揚げ正月公演の後、春秋座は、収益配分と経営情報公開をめぐり、猿之助兄弟と荒次郎、長十郎、翫右衛門と意見が対立、また、2月公演の不入りは一層溝を深めていきます。

 さらに、様々な要因が重なり春秋座はごたごたが続き、1931年5月22日荒次郎長十郎翫右衛門鶴松市川笑也五世河原崎国太郎)らを中心に春秋座から離脱、村山知義も参加した32名で前進座を結成し、荒次郎が幹事長、笑也が書記長に選ばれました。翌6月市村座旗揚げ公演として、前進座設立に至る春秋座の出来事を描いた内幕劇土方与志演出『歌舞伎王国』、長谷川伸原作『飛びっちょ』、翫右衛門作『白粉の跡』の三本を上演します。

 しかし、初日から不入りが続き、その後の地方公演もうまくいかず、給料の遅配や少なさなどにより、もめ事が数多くおこり、幹事長の荒次郎とその仲間が退座に至ります。長十郎が後任に選ばれると11月には自前の俳優を確保するため、俳優養成の研究所を作って研究生を募集するなど少しずつ前進していきました。

 前進座一同が去った春秋座は、小太夫が抜け大衆劇団新興座を結成、春秋座は解散して猿之助は松竹に戻り、2年後、新興座も解散して小太夫は松竹に帰り、やがて映画界で活躍するのでした。

 翌1932年、前進座は、市村座からの提案で、動員増を図るためのスター作りをめざすこと、『仮名手本忠臣蔵』などの古典歌舞伎に取り組むこと、企業協賛などによる団体客を確保することに努めて行きます。続いて4月に『伽羅先代萩』を上演、そこで笑也の五世河原崎国太郎の襲名披露を行い、翌5月には、二世瀬川菊次郎六世瀬川菊之丞)が入座、陣容も徐々に整っていきました。

 5月21日、突然、拠点、市村座焼失という不運に見舞われた前進座は、翌月からの小林一三、宝塚公演で俳優、スタッフ一同、合宿生活を送ることで結束を固め、8月には新たな拠点、新橋演舞場での公演を始めることができました。その後も全国に巡業講演を行い、大阪松竹とも提携するなど地道な営業努力を重ねながら歯を食いしばって公演を続け、各地に後援会が誕生していきます。

 座員一丸となって奮闘努力を続けることで、ファンや後援者も徐々に増加し、1933年11月、市川團十郎宗家の暗黙の了解のもと行った『勧進帳』の新橋演舞場公演は多くの支援者を集め成功。そこで、四世中村鶴蔵六世瀬川菊之丞などの襲名も終え、前進座は、創立来の長谷川伸村山知義真船豊久保栄など新進劇作家作品の上演、歌舞伎古典の掘り起こし、新演出にもチャレンジすることで評価を高めていき、ようやく軌道に乗りました。

 また、根岸寛一の紹介で京成電鉄による支援の下、阪東妻三郎、千葉谷津の大日本自由映画プロにて小石栄一監督長十郎主演『段七しぐれ』で映画にも進出します。その後、日活と提携、太秦撮影所にて、太秦発声製作池田富保監督『清水次郎長』で長十郎が清水次郎長役を務めると、次作品長谷川伸原作の『街の入墨者』では、前進座ファンの山中貞雄鳴滝組の脚本で監督。主演の長十郎以下翫右衛門国太郎菊之丞など一座を上げて取り組み、キネ旬2位に選ばれるなど高い評価を得ました。

1933年大日本自由映画段七しぐれ小石栄一監督

 1933年大日本自由映画『段七しぐれ』小石栄一監督

1935年日活清水次郎長池田富保監督

 1935年日活『清水次郎長』池田富保監督・清水野次郎長役

1935年日活『街の入墨者』山中貞雄監督・(左)河原崎長一郎・(右)沢村国太郎

 1935年日活『街の入墨者』山中貞雄監督・河原崎長十郎(左)・沢村国太郎(右)

1936年「河内山宗俊」山中貞雄監督中村翫右衛門(左)・河原崎長十郎(右)

1936年日活・太秦発声「河内山宗俊」山中貞雄監督・中村翫右衛門(左)・河原崎長十郎(右)

1936年日活『股旅千一夜』稲垣浩監督

1936年日活『股旅千一夜』稲垣浩監督・中村翫右衛門主演(中)

 1936年初頭、前進座は「新大衆劇(演劇・映画)の確立」「全国観客との完全な結びつき」「発展的集団生活の建設」と三つの目標を掲げます。歌舞伎の発掘上演など伝統継承のみならず、現代性を持った芸術水準の高い演劇、映画を創作すること、観客と一緒になってそれらを作り出すために全国に組織を発展させること、より結束を固めるため、稽古場と住宅を併せ持つ演劇映画研究所を建設すること、を目指しました。

 6月、日活は当時、JO傘下の太秦発声と提携しており、同じ東宝ブロックのPCLと前進座は契約し、時代劇映画に取り組みます。そこから、1937年に山中貞雄監督の遺作となった名作『人情紙風船』が生まれました。

1937年東宝人情紙風船山中貞雄監督・河原崎長十郎(中)・中村翫右衛門(右)

1937年東宝『人情紙風船』山中貞雄監督・河原崎長十郎(中)・中村翫右衛門(右)

 この月、新橋演舞場で歌舞伎十八番『鳴神』が初めて上演されます。

 1937年3月、前進座演劇映画研究所の定礎式を吉祥寺の建設現場で挙行、6月に竣工、開所式が開かれ、ここから28世帯60名の画期的な集団生活が始まりました。

 1938年には東京の松竹とも提携、6月、新宿第一劇場にて公演が行われ、前進座は東宝、松竹の劇場を両天秤にかけることができるようになり、演劇界、映画界で存在感を示します。

 劇団が創立10周年を迎える1941年3月新橋演舞場にて松竹社長大谷竹次郎企画、真山青果作『元禄忠臣蔵』の系統的上演を始めました。長きにわたる公演に向け、前進座一同、落ちこぼれをなくす「絶対修業」をスローガンとして臨みます。

 東宝との映画製作契約が終わり、改めて松竹と3年間の契約を結んだ前進座は、京都太秦に入り、松竹映画オールスターが出演する国策大作映画溝口健二監督『元禄忠臣蔵』に座を上げて取り組みます。そして、戦時景気もあり、公演、映画ともに大ヒット、創立10年を越えた前進座の名前は全国に轟きました。

1941年松竹『元禄忠臣蔵』溝口健二監督・河原崎長十郎(左)

1941年松竹『元禄忠臣蔵』溝口健二監督・河原崎長十郎(左)

 その後、戦争激化する中、苦しみながらも全国で慰問公演活動を行い、多くの人々と交流を深め、戦後を迎えた前進座の座員は、吉祥寺の研究所に戻って演劇活動を再開します。

 11月、帝国劇場から始まった大劇場公演の集客に苦労した前進座は、方向を変え、学生や一般勤労青年に向けて安い入場料で公演が見れる「青年劇場運動」に取り組むことで、徐々に共同生活を行う座員も増加、彼らの子供たちによる「子ども劇場」も発足し、班に分けて全国津々浦々を回り、公演を数多く行うことで前進座ファン及び後援組織を作っていきました。

 1949年、前進座は、座員一同、共産党に入党、様々な弾圧を受けながらも、戦後の苦しい環境の中で頑張っている多くの方々に演劇の面白さを伝えるべく公演活動を続けます。そのさなか、突然の開場使用不許可による公演中止から起こった騒動で翫右衛門が逮捕状を受け中国に逃亡する事件が起こり、3年間の中国生活の後、晴れて帰国できたのは大日本映画党美女と怪龍』が公開された一月後の1955年11月でした。

 景気が回復したことで世の中も徐々に落ち着き、大劇場での公演も復活した前進座は、地方巡演との二本足の活動を推し進め、演劇活動はますます充実していきます。

 しかしながら、1968年、方向性の違いから、長十郎が除名、翫右衛門が幹事長に選ばれ、新たに株式会社として生まれ変わった前進座は新たなフェーズに入ります。

 数年間途絶えていたテレビ・映画出演を復活させ、1969年に翫右衛門とその子四世中村梅之助が出演した三船プロ製作『風林火山』が大ヒット、翌1970年には映画放送部新設し、7月、中村梅之助主演NET・東映製作『遠山の金さん捕物帳』が放送され、1973年まで続く大ヒットドラマが誕生しました。

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1973年NET・東映『遠山金さん捕物帳』中村梅之助主演

 その後、梅之助とその長男二代目中村梅雀はNHK大河ドラマをはじめ、テレビ、映画で大活躍します。

 前進座は、歌舞伎、新劇、大衆劇というバラエティに富んだ演目で、大衆性と芸術性の一致を目指した、歌舞伎界が生んだ革新的演劇一座として現在も前進しています。