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⑨ 第2章 「激闘1826日!東映発進」

第1節「経理社長から事業社長へ 明日を見ていた大川博 映画館篇」

 松竹は白井松次郎大谷竹次郎兄弟が創設、二人は京都の芝居小屋の経営からキャリアをはじめ、これまでの芝居小屋の興行や経営を刷新、その卓越した手腕で大都市の主たる芝居劇場を買取り拡大を続け、戦前戦後を通じ、何度もピンチを迎えた歌舞伎の存続に貢献し、今や歌舞伎俳優、興行を一手に握り、日本を代表する伝統芸歌舞伎=松竹として「歌舞伎」を商標登録出願するまでに至りました。

 1920年、松竹兄弟の末弟で松次郎の養子、ヨーロッパの映画事情を視察し帰国した白井信太郎を中心に映画界に進出してからも、芝居小屋同様、着実に大都市での直営映画館を拡大し、映画興行界でも着々とその地歩を固めつつ、製作にも力を注ぎ、東京と京都で撮影所を立ち上げ、歌舞伎界とも連動させながらこれまで培ってきた役者行政を駆使、両撮とも軌道に乗せ、日本映画業界をリードする最大手の日活に対抗、内紛などで日活の経営が傾くと、歌舞伎界と同じように日本映画界の覇者を目指して日活の経営権と営業網の確保に乗り出します。

 その時、松竹の前に大きく立ちふさがったのが、鉄道資本をバックに宝塚歌劇や演劇を柱として、近代的経営手法をもって新たに日本の演劇界と映画界に乗り込んできた関西電鉄事業の雄「阪急」を率いる小林一三でした。

 1932年、小林は日比谷に東京宝塚劇場を立ち上げ、東京の演劇、映画興行界に参入、1937年には東宝映画を創立して映画事業に乗り出し、東京・京都の撮影所とともに東京、大阪、名古屋、京都といった大都市に直営の近代的で豪華な映画館を建設、同1937年、帝国劇場を購入し、演劇界にも本格的に乗り出しました。

 映画界に新規参入した東宝は、その豊富な資本力を活かし、経営の傾いた日活と提携することで、日活がこれまで築き上げてきた映画営業網を活用し、日本映画界でのイニシアチブを握ろうとしたまさにその時、日活側で東宝との提携を進めていた常務の堀久作が商法違反で逮捕され、その間に松竹大谷が日活の負債を銀行に個人保証も入れて肩代わりすることで、東宝同様日活の経営に乗り込み、東宝と対峙します。

 そして日活を巡る東宝と松竹、膠着状態の中、戦争激化による政府からの映画会社統合案を受け、永田雅一が大映を立ち上げ、堀が死守した日活の営業権と直営興行網を除く日活の製作部を吸収し、戦後を迎えました。

 駅前一等地の価値と重要性を知る小林東宝は、映画館経営を重視し、戦後、全国の駅前に系列館網を広げる方針「映画館百館主義」を掲げ、東急総帥五島慶太の協力も得て、着々と超一等地にも映画館を確保、芝居小屋時代から劇場の大切さを知る映画興行最大手、松竹に対抗していきます。

 五島慶太の腹心大川博は、小林東宝の姿を見て、映画事業における不動産業でもある映画館経営の大切さを学び、東映の経営が少し安定するや否や全国の主要都市に土地や劇場を確保し、直営映画館設立を積極的に進め、先行する松竹、東宝に立ち向かっていきました。

 大川が東横映画から引き継いだ映画館は4館、五反田と新宿は所有物でしたが、新橋メトロと飛行館は賃借でスタートし、東映発足の翌1952年4月に東横劇場から東映劇場に名称を変更、10月に飛行館を返却し、この時点で3館になります。

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 1954年1月15日号 東映「社報」第20号より

 東映が立ち上がりの苦難をなんとか乗り越え、正月映画「ひめゆりの塔」の大ヒットで勢いがついた1953年、ここから、より安定した映画事業経営を目指す大川の直営館拡大計画が始まり、まずは新宿ヒカリ座と横浜オリムピアを有するオリムピア映画を吸収し、2館を獲得、その年11月、第1館目の直営劇場を五島のお膝元、渋谷に新築、渋谷東映、渋谷地下劇場の2館を設立し、今後の直営モデル劇場としました。

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 1952年9月10日発行 東映「社報」第8号より

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1955年1月30日発行 東映「社報」第29号より

 そして、1954年からの2本立て興行、娯楽版が成功し、ますます勢いに乗った東映は、直営館の新築計画を積極的に推進、1955年には大阪道頓堀、福岡、名古屋、札幌、福岡みなみ、北海道から九州までの大都市に次々と直営劇場を新築し、前年賃貸で開業の弘前、水戸に加え、大阪堺市にも賃借ですが直営館を設立し、開業から5年で全国主要都市に14地区19スクリーンを有するまでに成長しました。

 大都市での新築、豪華、快適な直営館は、マキノ満男が製作する注目映画の人気に拍車をかけ、映画と映画館は両輪で好循環を生み出し、東映の経営に寄与、この後もどんどんと全国に直営館を建設、松竹、東宝に対抗する一大直営館網になっていく、その基本方針を大川が作りました。

1954年8月10日発行 東映「社報」26号より

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1955年1月30日発行 東映「社報」第29号より

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1955年5月1日発行 東映「社報」第30号より

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 直営劇場は映画収入だけではなく、様々な関連収入を生み出します。松竹兄弟は幼いころ、相撲小屋や芝居小屋の売店を経営する両親を手伝うことから芝居興行のキャリアをスタートし、芝居小屋の運営にとっての売店、飲食収入の大事さを身に染みて経験していました。

 また、小林一三も宝塚で劇場や娯楽施設を経営するにあたり、飲食、売店、グッズ販売など関連収入、関連事業の大切さを知っており、それを学んだ大川も、積極的に直営劇場での関連収入確保に取り組んでいきます。

 大川東映も先輩に倣い、モデル劇場渋谷東映を新築するにあたり、地下に「サントリーバー」と「喫茶トーエー」を開店させ、これが直営館関連事業の先駆けとなり、以後次々とオープンする東映直営館を利用した関連事業や不動産テナント事業へと発展していくのでした。

 松竹、東宝が、劇場、映画館という演劇や映画のための直営集客施設として、早い段階で大都市の駅前や繁華街の一等地に確保した土地は、やがて日本の経済発展にともない、人口の都市集中が始まると、莫大な価値を生み、劇場直接の売店飲食など関連収入以上に、収益不動産として再開発され、「歌舞伎座タワー」や「東宝日比谷ビル」など莫大な利益を生み出し、不安定な映画事業を支える経営の柱になっています。 

 そして、鉄道沿線事業を開拓した小林の薫陶を受けた五島慶太側近の大川博は土地所有の有益性、土地が価値を生み出すことについて経理的数字を通じて熟知しており、映画館だけでなく、京都撮影所についても土地を所有していた大映より、1955年3月に買取り、これが現在、狭い京都市の市街地でおよそ3万坪の広大な敷地を持つ東映の土地獲得の第一歩、この後、東映時代劇の好調を受けて、隣接地の購入を続け、そこにステージを次々と新築、撮影所はどんどん東に拡大し、紆余曲折を経ながら現在に至ります。

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 1955年5月1日発行 東映「社報」第30号より

 大川が東映社長に就任した1950年代は戦争の後遺症が残っており土地も安く、都市も開発途上で中心地の周りにはまだ参入の余地があり、駅前土地の大事さを知る大川は積極的にそこに土地を購入、直営館網を築いていき、それは、東映映画の全国における営業の前線基地として東映映画ヒットに貢献しました。また、高度成長期を迎え、電鉄のターミナルを中心とした沿線に住宅が密集、直営館の土地は高付加価値を生み、東映の含み資産となり、その後、東映に訪れる数々の危機を救います。

 今年、東映は70周年を迎えましたが、その経営を支える映画、テレビ、今絶好調のアニメ、不動産、教育の各事業は大川博社長就任から5年の間に着々と基盤が作られ、次の5年で発展、そして今日に至っております。

 大川博、東映の明日を見ていた男でした。

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 東映70年の基盤を作った大川博