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① 第1章 「風雲!東映誕生」

第1節 「大日本映画党 マキノ満男」

 「日本映画の父」牧野省三。その天賦の才は息子たちに受け継がれました。
 映画監督としての才能は長男正唯(マキノ雅弘)と先妻の子、松田定次に、そして人をたらしこむプロデューサーの才能は次男光次郎(マキノ満男)に開花し、日本映画界の深部には、マキノ一族で作りあげたマキノの型が今も残っていると確信しています。

 岡田茂は「大衆心理をつかむカン、私財はないが人脈はある、それがマキノの血」と語っています。日本では映画を作って大金を無くした人は数多くありますが、映画興行配給、関連ビジネスで堅実に事業を拡大した人はいても、映画を作り続けて大金を貯めた人は思いあたりません。

 お金に縁が遠いクリエーター・マキノの血。

 横田商会横田永之助から1本30円で請け負った「本能寺合戦」から始まる映画製作プロダクションの元祖とも言える、牧野省三です。

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等持院にある「牧野省三像」

 1938年(昭和13年)、小林一三の影響を受けた五島慶太によって東横電鉄の興行子会社として五島自ら社長に就任し誕生した「東横映画」は戦争末期、空襲などですべての劇場を失います。

 しかし、戦後1946年(昭和21年)には東横電鉄から成長した五島の東急電鉄の支援を受け、劇場を再開、製作・配給にも乗り出し、翌年、大映の社長に就任した永田雅一と提携、3月には京都の大映第二撮影所(元新興キネマ太秦撮影所)を借り「東横映画京都撮影所」を設立、前年松竹大船撮影所を退社したマキノ満男が所長に就任しました。

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  1952年マキノ満男を中心に東映撮影所に集まった人々        後列  長橋  坪井   玉木  比佐  古市 川崎 松田        前列   右太衛門  阪妻   マキノ  千恵蔵  月形

 マキノ満男は兄雅弘同様、ゲンを担いで幾度も名前を変えました。

 本名多田光次郎(ただ みつじろう)、多田は母方の姓で、子役時代牧野光次郎、多田満男、牧野満男、マキノ満男、東京映画配給が誕生した1949年「獄門島」あたりからマキノ光雄と変わります。

 マキノ満男は幼き頃から父親の傍で映画製作を見て育ち、同志社中学中退後マキノ御室撮影所に入所、マキノ解散後は日活太秦撮影所の現代劇部に入るも、1933年(昭和8年)日活多摩川撮影所が誕生し現代劇部とともに東京に移りました。

 そして1935年(昭和10年)所長として入所した、「日本映画界の竹中半兵衛」とも称される根岸寛一と出会います。

 所長と製作部長、二人は二人三脚で日活多摩川撮影所の再建に乗り出し、内田吐夢田坂具隆など後の名監督を育て、経営の傾いた日活を支えました。

 しかし、松竹、東宝による日活の経営主導権を握る戦いのはざまに巻き込まれ、1938年(昭和13年)二人は日活を退社、「赤い夕日の大地」満洲に渡り、根岸は理事、マキノは製作部次長として満洲映画協会に入社いたします。

 翌年理事長に就任した甘粕正彦の下で二人はプロパガンダ映画から日活多摩川で培った大衆娯楽路線に方向を変え、李香蘭というスターを生み出すことに成功します。

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日活を離れ満映に向かう根岸とマキノ

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1940年満映時代のマキノ満男

 「満映」は1937年(昭和12年)8月満州国首都新京(現長春市)に、満州人に見せる映画を製作することと彼らに映画製作技術を教え込むことを目的に創立された国策映画会社です。

 後に東映専務となる坪井與等社員50人足らずでスタートしましたが、根岸とマキノは日本から多くの映画人を集め基礎を築き、満映従業員は終戦時には1600人を越えるまでになっていました。

 1939年(昭和14年)郊外5万坪の土地に建坪13000坪の広大な新撮影所が誕生、そしてここで技術を磨いた中国人スタッフたちが戦後の中国映画界を引っ張って行ったのです。

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満洲映画協会娯民部撮影隊一同

 しかし、戦局の拡大とともに1942年(昭和17年)春マキノは東京支社に異動、翌年、兄正博が所長になった松竹京都撮影所に入社し、1940年(昭和15年)根岸は結核に罹患、終戦前の6月に日本に帰国しました。

 そして終戦後、根岸とマキノ、この二人が中心になって、甘粕理事長との約束に応えるべく、東急の五島慶太や大映永田雅一を巻き込み、東横映画を満映他外地から引き揚げてきた映画人たちの受け入れ先映画会社としてリニューアルしたのです。

 根岸は療養中のため表に出ず軍師として働き、マキノが行動隊長として活動しました。

 東横映画の社長には五島の右腕、根岸の親友、東急専務の黒川渉三が就任し、黒川の出身地つながりで岡田茂も入社が内定していた日清紡を蹴って東横映画に入社、マキノ所長の京都撮影所に配属され、マキノの流れをくむ映画人としての薫陶を受け、撮影所で苦労と共に大きく育って行ったのです。

 満映撮影所は、「最右翼」甘粕理事長の下に、日本に居づらくなった「左翼」映画人を多数受け入れ、国策映画の撮影所でしたが右も左も同居のマキノイズム的撮影所でもありました。

 戦後、レッドパージでGHQに呼び出されたマキノ満男は「右翼でもなければ左翼でもない。いってみれば(ウチは)大日本映画党だ。」と彼らを煙に巻いたと言います。

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東映時代マキノ満男

 東横映画京都撮影所はマキノの血を受け継ぐ右も左もない大日本映画党でした。その血は東映にも流れる娯楽映画の血でもあります。

京撮・東横映画正門前

 東横映画京都撮影所 中央広場 1948年(昭和23年)頃

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社内報「とうえい」1958年2月号