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⑪ 第2章 「激闘1826日!東映発進」

 第2節「大衆娯楽主義の血脈・東映カラーの確立 マキノ満男」

 鉄道経理マン社長大川は、東映発足時に、牧野省三の血を引くカツドウヤ、取締役マキノ満男が経費無駄使いの根源と考え、満映引き上げ組が占める京都撮影所から引き離して、本社製作部長に任命、お膝元において監視しました。

 しかしそこで、初代所長坂上休次郎から代わった二代目京撮所長長橋善語をはじめとする元マキノ配下の面々ばかりではなく、後に東映社長に就任する岡田茂を筆頭に若手グループも一致団結して、大川にマキノの映画事業陣頭指揮復帰を強く嘆願し、マキノの人望と能力を認めた大川は、1952年10月にマキノを常務取締役に昇格させ、東西両撮影所の企画者を本社に集めた企画本部長に任命、作品の製作予算の厳守を強く命じましたが、企画内容面にはあまり口を出さず、映画作りに関しては、両御大作品以外をマキノに一任しました。

 マキノも大川の経営面での奮闘に間近で接し、自分にない能力を認めるとともに、大川に託した五島の思いに応えるためにも、撮影に関係する人々を、手を変え品を変え、なだめすかしながら制作に工夫を凝らすことで、五島が東急で始め、大川が東映で実行した「予算即決算主義」を懸命に支えていきます。

 そして、企画本部長就任前に、東京撮影所所長に就任していたマキノは、東撮現代劇の強化をめざして、これまでマキノ、日活、満映、松竹、東横と映画界を渡り歩き培ってきた経験を活かし、「戦争・現代史物」、「探偵・推理・アクション物」、「新聞記者・刑事など社会物」といった、現在にまで至る「東映カラー」を確立して行きました。

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1952年公開 東映「泣虫記者」春原政久監督・岡田英次主演

 1953年正月、東横時代に大ヒットした「きけ わだつみの声」の女性版、「柳の下の二匹目のドジョウ」をねらい、マキノが心血を注いだ東撮作品、今井正監督「ひめゆりの塔」が、その前週に公開し東映始まって以来のヒットを記録した片岡千恵蔵主演京撮作品「喧嘩笠」を、遥かに大きく超える特大ヒット、東映エポックメイキング作品となり、この年、東映は配給収入で邦画五社のうち三位に上昇、ようやく、苦難の道から躍進の道へ転換することができました。

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1953年公開 東映「ひめゆりの塔」今井正監督・津島恵子主演

 一方の京都では、東横時代に話は戻りますが、1948年10月、大映社長永田雅一の映画館主大会での「多羅尾伴内は幕間の仕事」発言から端を発した、永田と時代劇の大スター片岡千恵蔵との確執のため、翌1949年に契約満了を待った千恵蔵が大映とたもとを分かち、機を見たマキノ満男の誘いによって、続けて大映を脱退した市川右太衛門とともに、東横に加入するに至り、発足時から参加している月形龍之介と合わせて、マキノ出身、戦前時代劇を代表する三人のチャンバラスターが東横に集まり、後に、東横から東映に生まれ変わった1951年、その年8月からはじまる時代劇映画解禁によって、三人の活躍は経営回復への強い力となりました。

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1951年公開 東横映画「豪快三人男」マキノ雅弘監督・市川右太衛門主演

 ちなみに、マキノ満男は、根岸寛一の描いた絵図に従って、五島慶太のもとに、片岡千恵蔵、市川右太衛門を担ぎ出し、三人で頭を下げ、東横映画への更なる資金の融資と経営支援をお願いし、それに男気を持って応えた五島によって、大川の東映社長起用へと繋がっていった、と岡田茂は語っています。

 ここで、少し時代劇解禁について話をしますと、戦後、日本に駐留したGHQの広報、教育、芸術、宗教などを担当する部局、民間情報教育局(CIE)の方針で、刀を使ったチャンバラ時代劇が全面禁止され、時代劇といえば世話物や芸道ものなど刀を使わないものに限られることとなり、戦前のチャンバラスターたちも慣れない現代劇や世話物に苦労しながらも挑んで行かざるを得ませんでした。

 映画で自由に刀を振れることができない時代劇スターたちが、芝居の地方巡業などを行うなど苦労する中、ようやく、世間が少し落ち着きを取り戻し始めた1949年あたりから、新聞夕刊に連載された時代小説が大評判を呼び、その映画化を求める声も強まり、徐々にチャンバラ復活の気配が生まれてきます。それを受けて、映画界も捕物帳物などの作品でジャブを繰り出し、様子を見ながらチャンバラ時代劇完全復活に向けて動き出します。

 そして、1949年4月発足、CIEから映画指導を移管された「映画倫理規定管理委員会(旧映倫)」によって作られた「時代劇は各社月1本以内年間12本」という自主規制が、サンフランシスコ講和条約締結によるGHQ撤退に先立つ、1951年8月、映画会社社長が集まった会議で撤廃され、その後のGHQの完全撤退により、他の自主規制も徐々に緩んでいくとともに、時代劇は加速度的に本数を増やし、復活していきました。

 その中で、戦前のチャンバラ三大スターが集まった東映は、大映を離れフリーになった阪東妻三郎、嵐寛寿郎の協力も得ながら、レッドパージで失業した宇野重吉や滝沢修、薄田研二など新劇界の大物も入って俳優の層が格段に厚くなり、まさに右翼も左翼もない「大日本映画党」として、1953年10月、月形主演佐々木康監督「風雲八萬騎」からマキノが心魂を傾け目指した「時代劇は東映」を旗印に掲げます。

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1958年公開 東映「風雲八萬騎」佐々木康監督・月形龍之介主演

 大スター千恵蔵、右太衛門を東映に呼び込んだマキノ満男は、新芸プロの福島通人を通じて、当時人気絶頂の美空ひばり、そして、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、高倉健など新人俳優を東映に迎え入れ、彼らや戦前の剣劇スター大友柳太朗を子供や女性向け作品に起用したり、また、スター美空ひばりと共演させ知名度を上げるなど、父、牧野省三から受け継いだ、人気スター作りを実践し、次々と若手アイドルスターを生み出していきました。

 若手からベテランまで時代劇俳優も充実し、チャンバラ映画復活という大転換もあり、、全プロ配給で徐々に自信と体力をつけてきた東映は、1954年正月から「東映娯楽版」と銘打った子供向け中編映画を添えた「二本立て興行」を実施、反撃の狼煙を上げ、大きく日本映画界に打って出ます。

 東映娯楽版は大友柳太朗主演「真田十勇士」三部作から始まり、次作の堀雄二主演「謎の黄金島」からは、毎週一作づつ三週にわたって上映する連続活劇物として公開、続いて「雪之丞変化」、そして4月に、NHKラジオドラマで大人気の連続冒険活劇「新諸国物語 笛吹童子」を東千代之介、中村錦之助主演で公開すると、ラジオ、映画、書籍、レコードなどのメディアミックス効果もあり、子供たちの間で一躍大ブームを巻き起こしました。

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1954年公開 東映「真田十勇士 忍術猿飛佐助」河野寿一監督・大友柳太朗主演

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1954年公開 東映「笛吹童子」萩原遼監督・東千代之介主演

 同じく千代之介、錦之助主演「里見八犬伝」の後、「笛吹童子」のサブキャラクターながら人気が出た大友柳太朗演じる「霧の小次郎」、千代之介主演で「蛇姫様」、「笛吹童子」のサブキャラクター「三日月童子」をまたまた千代之介主演で、各三部作を週替わりで公開し人気を高めて行き、1955年正月公開の千代之介、錦之助主演「新諸国物語 紅孔雀」が、その他大作を蹴散らし、その年の日本映画で第1位の興行成績(「キネマ旬報 映画40年全記録」より)を記録する大ヒットを飛ばしました。

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1955年公開 東映「紅孔雀」萩原遼監督・中村錦之助主演

 それはまさに、牧野省三忍術映画で、尾上松之助という日本初の映画スターを生み出し、子供たちの間で大ブームを巻き起こすことで、戦前の日活に全盛期をもたらしたように、省三の次男マキノ満男は、子供向けの連続冒険活劇シリーズで、千代之介、錦之助、大友柳太朗といったアイドルスターを作り出し、戦後の子供たちの間で大ブームを巻き起こすことで、東映時代劇に全盛期をもたらしたのでした。

 そして、子供向け娯楽版と、千恵蔵、右太衛門を中心とした大人向け娯楽時代劇との両輪で快進撃を続ける東映は、1956年1月、片岡千恵蔵主演松田定次監督オールスター総天然色映画大作「東映五周年記念映画 赤穂浪士」を公開、これが前年の「紅孔雀」に続く2年連続の日本映画配収1位に輝き、そしてこの年、ついに、東映年間配給収入国内1位に躍り出ます。

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1956年公開 東映「赤穂浪士」松田定次監督・市川右太衛門主演

 1956年、東映が荒海に船出して5年目、経営体質改善の荒療治を行った大川博、情熱をもって映画作りに取り組んだマキノ満男、夢を描いた根岸寛一、そして彼らが作る東映事業に私財を賭けて挑んだ五島慶太、ついに彼らの夢が結実したのです。

 千恵蔵、右太衛門が共演する東映オールスター映画は、この後、盆正月の名物シリーズとして東映時代劇映画全盛期を支え、1963年正月、12作目「勢揃い東海道」まで続きました。

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1963年公開 東映「勢揃い東海道」松田定次監督・片岡千恵蔵主演

 1957年12月9日マキノ満男は48歳で逝去、牧野省三の血を引く、満男は省三の娯楽主義、新人、新スターの育成、教育・芸術映画の支援を受け継ぎ、東映京都撮影所、東京撮影所にそれぞれの特徴を生かした作品カラーの基盤を作り、後事をマキノの遺志を継ぐ岡田茂に託しました。

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1957年マキノ光雄を偲ぶ会(遺影を持つ片岡千恵蔵・2列目右端岡田茂)