身体について気付けることから考えられること 1

自分が動いていることを感じる。スクワットという運動を使って、それだけの経験をしていただいたのは、人体という自然の一部を、私たちは内側から観察できることをお伝えしたかったからです。

観察というと、何かを外側から見つめるイメージがあります。その時、ただただ眺めるのではなく、そのものの何かしらの変化に注意を向けている時に、観察という言葉を使っています。

アハ体験というのがありますね。少しづつ変わっていく画像を一定時間見て、どこが変わったか答えるやつ。https://www.youtube.com/watch?v=7TCT-HhmEdA&ab_channel=JaguarJapan%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%BC
これホント私は苦手なんですよ。全然わからない。答えを知った後に見れば一目瞭然で、これがわからないのは何か自分には欠落しているものがあるんじゃないかと思うくらいです。

しかし、程度の差はあれ、これはそんなもんなわけです。変化する可能性のある場所が無数にあれば、難しくなるのは当然です。

私にとって、このアハ体験と同じ「わからない思い」をしていたのが、学校の体育の時間でした。

私のように、子供の時に運動やスポーツが苦手だった人間には、球技でも鉄棒でも上手い子のやっていることを見るのは、「何がどうなっているかわからない」難しいことなのです。

アハ体験が「どこが変わっているかわからない」のに対し、他人の運動は「すべてが変わりすぎていてわからない」ものだと言えます。

実のところ、今になって私は運動オンチで良かったとつくづく思っています。この「わからない」という事実を、人一倍体験できたからです。運動をみただけですぐにできてしまう人=「わからない」ことがわからない人は「わかっている人」ではありません。「わからない」ことがわからない人は、そもそもわかる必要がないからです。

「わかる」それは「分ける」ことだからです。





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