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餅つき

ぺったんぺったん。ぺったんぺったん。

「よいしょおっ!」「はいなっ!」

寒さに紅く染まった手指に白い息を吐きながら、威勢のいい掛け声とともに呼吸を合わせて餅をつく。脇では蒸篭を何段にも重ねて、羽釜を焚火にかけ米を蒸している。湯気が辺りに立ちこめ皆の笑顔もまた紅く染まる。




ぼくの両親は、友人たちとの絆を大切にしてきた。

そのせいか、他の家族との交流が多く、四季折々の行事やイベントがひっきりなしにあったように記憶している。父は仲間と事業を始めた人なので、特に家庭同士の絆を大切にしていたように思う。今で云ういわゆるアウトドアな人では決してないのだが、室内にこもるタイプでもなかった。




そんなわけで、餅つきである。

どうやら、ぼくは餅つきの「才能」があるらしい。幼いころから大人用の重い杵を上手に操り餅をつくので、よく周囲の大人に褒められた。褒められるから気をよくして、更にどんどん餅をつく。今考えてみれば、大量の餅をつくのに大人は疲れてしまうだろうから、張り切る子どもは重宝したのだろう。




結婚して子どもに恵まれ、また餅をつく機会が増えた。

上手に餅をつける大人が少ないせいか、出番が多い。うまいの上手だのと云われていい気になることもなくなったが、思いがけない人が歓んでくれるようになった。

我が子である。

父の餅つきを嬉々として応援するようになった。なんだか、大切なものを伝えられたような気になって、結局やっぱり張り切って杵を振り上げてしまう自分がいた。




餅つきは、古来よりコミュニティの連帯を深め、歓びを分かち合う役割を担ってきたそうだ。重い臼の準備からはじまり、米を蒸し、つき、小分けし、ずんだや黄な粉、辛み大根、海苔、雑煮などを用意し、実際に口に入るまでには実に多くの人々が得意なことを受け持ち、協力する。

餅つきは決して一人では出来ないのだ。




従来コミュニティのなかで頼りあってきた人びとが自立を強要され、技術革新が急速に進み便利になったことで他人との分断が加速してしまったこの困難な時代。コロナの襲来は、この時代に「お前たちはそれで本当に良いのか」と痛烈に問いかけているように思えてならない。

その正月に、「人びとの連帯」や「歓びを分かち合う」ことこそが、今まさにぼくたちに必要不可欠なのだと痛感している。今年は餅つきこそ出来なかったが、別のカタチの「餅つき」を編み出さなければならないだろう。そしてぼく自身の歓びもそこにあると、決意を新たにした年始である。




皆さまのこの一年が、「歓びの一年」となりますように。

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