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ついに解明?!「クラムボン」の正体

いきなり結論。

宮沢賢治の初期作品のひとつ「やまなし」には、クラムボンという謎の存在が登場する。クラムボンとは何か、どうやら数十年も議論が続いているらしい。

曰く「母蟹」、曰く「光」、曰く「人間」、曰く「コロポックル」、、、

ここで、あえて断言しよう。そのどれもが誤りであると。そして、今日、この場で積年の議論に結論を出すと。

しかし聞いてしまえば、その結論は、甚だつまらぬものでしかない。隠し立てするほどのものではない故、まずは種明かしからしてしまおう。

クラムボンとは、成虫として空中に飛び立つまで水中に住む、小さな虫「トビケラの幼虫」だ。それも羽化直前のサナギの状態の幼虫だ。

ちなみに、23年7月現在、Googleで「クラムボンの正体」を検索した結果はこれである。


なぜ、このような結論になるのか。そして、宮沢賢治は何をつたえようとしているのか。興味を持たれた方は、しばし私の思索の旅にお付き合いいただきたい。


やまなし、あるいは本日の謎の舞台

まずは、「やまなし」を紐解いてみよう。短編ゆえ件のくだりを青空文庫より転載する。なお、すでに著作権の期間は過ぎている。

「やまなし」宮沢賢治(前半/5月全文掲載

小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。

一、五月
 二疋の蟹かにの子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳はねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』

 上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』

 つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒泡を吐はきました。それはゆれながら水銀のように光って斜ななめに上の方へのぼって行きました。
つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。

『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いいました。
『わからない。』

 魚がまたツウと戻って下流のほうへ行きました。
『クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』

 にわかにパッと明るくなり、日光の黄金きんは夢ゆめのように水の中に降って来ました。

 波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐな影の棒が、斜めに水の中に並んで立ちました。

 魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるっきりくちゃくちゃにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又また上流の方へのぼりました。
『お魚はなぜああ行ったり来たりするの。』

 弟の蟹がまぶしそうに眼めを動かしながらたずねました。
『何か悪いことをしてるんだよとってるんだよ。』
『とってるの。』
『うん。』

 そのお魚がまた上流から戻って来ました。今度はゆっくり落ちついて、ひれも尾も動かさずただ水にだけ流されながらお口を環のように円くしてやって来ました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。
『お魚は……。』

 その時です。俄に天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のようなものが、いきなり飛込んで来ました。

 兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒く尖とがっているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金きんの網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。

 二疋はまるで声も出ず居すくまってしまいました。

 お父さんの蟹が出て来ました。
『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか。』
『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』
『どんなもんだ。』
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖ってるの。それが来たらお魚が上へのぼって行ったよ。』
『そいつの眼が赤かったかい。』
『わからない。』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。』
『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』
『魚かい。魚はこわい所へ行った』
『こわいよ、お父さん。』
『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』

 泡と一緒いっしょに、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。
『こわいよ、お父さん。』弟の蟹も云いました。

 光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。

青空文庫より


いかがだろう。クラムボンはいかようにも解釈ができるというか、あまりにもヒントがなさすぎるというのが感想ではないだろうか。

しかし、答えは確かにそこにあるのだ。


クラムボンはなぜ「トビケラの幼虫」なのか

消えない泡の謎

注意深く読めば、ヒントになる箇所をいくつか見つけることができる。まず、最初のヒントは、その情景描写にある。蟹の言うところの天井、すなわち水面には泡がいくつか流れている。この泡の正体こそがクラムボンなのだ。

ただし、この泡、クラムボンは単なる空気の泡ではない。川には確かに水流によって泡がたつこともあるだろう。しかし、実際には水面に立った泡が流れていくことはほとんどなく、瞬く間に消え去ってしまう

では、消えない泡などあるのだろうか。

実はそれ「消えない泡」こそが、トビケラの幼虫なのだ。より正確に言えば「トビケラの蛹(さなぎ)」だ。

泡が蛹とは、奇妙に聞こえるかも知れない。

そこで、ここで少し「トビケラ」の生態について説明しておこう。


トビケラの生態

トビケラは、カゲロウにも似た川辺に住む昆虫だ。その幼虫は、ヤゴと同じように水中で育ち、成虫になる直前に水中で蛹になり、水草に体を固定する。

そして5月頃(種類によるが概ね4~6月)羽化する直前、蛹の状態で水面に浮かんでいき、水面に浮かんだところで脱皮を果たし、成虫となるのだ。

「5月」とは、まさにトビケラが羽化するピークの月であることをここに強調しておこう。

さて、この時、水中の水草に体を固定していた蛹は、貯めていたたっぷりの空気を体に纏い、水草から体を切り離して大きな泡のようにキラキラと全身を光らせながら水面に向かう


なぜ空気をまとうのか

実は、空気を纏うことで、トビケラ(の蛹)は透明になれるのだ。原理はこちらを観ていただければよいだろう。

ペットボトルにあたるのが、トビケラの蛹のまとう空気の泡だ。こうやってトビケラは羽化の直前の最も見つかりやすく、弱い状態を空気の泡に擬態し、透明になることでなんとかしのごうとしているのだろう(トドナン君説)。

水面に向かうトビケラの蛹は、まさに水面を流れる消えない泡そのものなのだ。

トビケラではないが、同じように水面羽化をするカゲロウの動画を参考までにあげておく。

こちらもご参考にしていただけるだろう。空気を纏うハエだそうだ。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/24/012400048/?ST=m_news


跳ねて笑うクラムボン

「クラムボンは跳ねて笑う」というのも、この説を裏付けている。

「跳ねて」というのは、もちろん、脱皮し成長として飛び立つさまを表しているのだ。

では「笑う」のはなぜか。

蟹の子たちの行動がヒントをくれる。

蟹たちが泡を吐き出すと、そこに急に魚が登場する。魚が追っているのは、泡、すなわち「羽化直前のトビケラの蛹」だ。

泡に包まれたトビケラは、透明になっている。だから魚も魚で、とりあえず泡を食べに行く。運が良ければ、トビケラが入っているからだ。

だからこそ、蟹の子たちの吐く泡を魚たちは「トビケラ」と勘違いして追う。

泡を追う魚が登場すると、途端に蟹の兄弟は「クラムボンは死んだ」「クラムボンは殺された」と話し出し、そして、魚が落ち着くと「クラムボンは笑った」となる。

蟹たちはまた、この魚の行動に対して「何かわるいことをしている」と語る。

要するに、クラムボンから見て魚は捕食者なのである。魚は、蟹が吐いた泡をクラムボンと間違えて追う。もちろん、本物のクラムボンであれば、それを食べてしまう。

魚に捕食されなければ、クラムボンは成長として飛び立つことが出来るので「笑う」わけだ。逆に、捕食されてしまえば、「死んだ」「殺された」となるのは言うまでもないだろう。

あるいは、もしかすると割れたトビケラの蛹が笑ったように見えるということかもしれない。

ところで、この「笑う」のは人間しかないのでクラムボンとは人間だという説があるらしい。もっともであるが、この物語の中においては、「蟹」がしゃべり、怖がり、酒を楽しみにする。

この世界において「笑う」のは、人間だけとは限らないのである。


『やまなし』の世界観

最後に、クラムボンをトビケラと解釈することで理解できる『やまなし』の世界観に触れておきたい。

魚は「青くて先端が黒く光るなにか」に持ち上げられてしまう。蟹の父は、これをカワセミと言った。

魚にとって、カワセミは捕食者だ。

蟹の目を通して描かれる、牧歌的で神秘的でキラキラと光るこの美しい世界において、クラムボン(トビケラのサナギ)を捕食する魚もまた、捕食される立場である。そうして命が連鎖していく様が『やまなし』に描かれていたのだ

そこには、賢治の自然に対する慈しみと深い洞察を見て取ることが出来る。また同時に食物連鎖に対する、そこはかとない絶望感も透けて見えるかも知れない。

いかがだろうか。これが私の解釈だ。

しかし、解釈は人それぞれ。この解釈が、読者皆さまのひと時の回想に資すれば幸いである。


蛇足。「やまなし」の正体

さて、最後に本編のテーマとはなにも関係ないのだが「12月のやまなし」の正体についても触れておく。

「『やまなし』は、『やまなし』でしょうが」
といいたくなるかも知れない。

そして、実際のところ「やまなし」は、文字通り「やまなし」に過ぎない。

しかし、そこに宮沢賢治の宗教的世界観を重ねると、「やまなし」に込められた重要な意味が浮かび上がってくる。

まず、野生の梨である「やまなし」は、植物であることに注目していただきたい。

宮沢賢治は、実は菜食主義だったことをご存知の方も少なくないだろう。加えて、動物の食物連鎖については否定的な立場を取っていたことも知られている。その宮沢賢治的世界観で言えば、植物は食物連鎖の外の存在であり、人は菜食をすべきだという思いがあった(本稿ではその是非、妥当性を論じない)。

また、宮沢賢治が生涯を通じて熱心に信奉していたのは、誰もが等しく救済されるという、一乗(菩薩乗)を旨とする法華経であった。そもそも前述の菜食主義もここからの影響が大きい。

そういう価値観、宗教的世界観に基づき宮沢賢治は作中で、植物である「やまなしを食べる(飲む)行為」に「食物連鎖からの解脱」を象徴させ、そして「やまなし」自体に、「多宝如来(多宝塔)、あるいは見宝塔品の顕現」を象徴させたのだろう。

その視点に立つと、5月と12月に分かれたこの物語は、「5月のクラムボン」に象徴された食物連鎖の世界が、「12月のやまなし」によって解脱を果たすという構造を持っていることが見えてくる。



と、私は読んだ。

しかし、これらは、宮沢賢治についての伝承を知らなければ、読み取れない話。少なくとも読解という観点からすれば、まったくの蛇足である。




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