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巧言令色鮮し仁

こんにちは、あるいはこんばんは、佐光です。なにかを観始めるとすぐ影響を受けがちなのが一言目からわかってしまいますね。フォージャー家の一員になりたいです。できればアーニャの妹がいい。

先日、todokeru,は座興公演「誰そ彼」の公演を終え、オンデマンド版の販売・配信も終え、一段落…かと思いきや、3月に本公演だそうです。ちょっと私追いつかない。理解が追いつかない。比較的落ち着かないタイプ、というか、考えるよりも先に行動するタイプだったのですが、年々人生経験を積むにつれ慎重さが増し、また老化も相まってスローになってきている私、代表に対して何度も確認してしまいました。
「いけますか?」「延期しますか?」
なんて失礼なんでしょう。もちろん代表の答えは決まっています。
というわけで3月に、本公演です!みなさまお楽しみに!
(完)

todokeru,のこれまでの公演を振り返ってみます。旗揚げ公演の「フーコの家」。これはいわば、家をテーマにしながらも一歩踏み出すお話。第二回本公演の「bright∴blind」。こちらも家の話2本。ポップでtypicalに見えるお化粧の中、何度も読んでいると気づいてしまう恐ろしさ。ホラーです。先日の座興公演「誰そ彼」。おどろおどろしいとも違う、ホラーとも違う、芝居乞食ワールド。
そして次回の本公演。これは!どんな作品なのか!!
乞うご期待!!
(完)

役得と申しますか劇団員だからにほかならないのですが、公開される前段階での作品を読める機会があり、それがとてもありがたくて面白いです。先日、この初稿(と言いながらも数稿目だときいてはいます)を皆で読み合わせました。これまでの公演とはちがう予想外の面白さで、その日帰宅してからも作品の世界から抜け出せない状態になりました。よかった。物語ってそういう力を持っているんだなと思わされた次第です。

本を読んだあとその世界から抜け出せなくなる、そういう話が私はとても好きで。最近そういった作品に立て続けに出会えていて、嬉しいなと思っています。今回の公演も、誰かを抜け出せなくさせてしまうものになりますように、と思っています。
(完)

さて話は変わりますが最近ピアノのリサイタルに行きました。きっかけは親戚の紹介です。そもそもそのピアニストの方が私の親戚なのです。なにかとお名前はきいていたけれど機会もなかったのですが、今回は近場で実施してくれたため。すごいなあと思いながら、自分のことを重ね合わせて考えていました。
私は幼少期からピアノを習っていました。ほんとうに小さい頃はおもちゃのようなピアノ。優しい若い先生が教えてくれていました。しっかりしたピアノがお部屋にきて、いつの間にか、ちょっと貫禄のあるちょっと怖い先生になりました。ハノンブルグミュラーメンデルスゾーンソナチネバッハソナタ、いろんな曲を弾き、そこそこ上手になったかなってころにグランドピアノも増えました。母は私を音大に行かせたかったようでした。先生がいつもおうちに来てくれましたが、私はどこかでピアノのことが大嫌いになって、全然弾けなくなってしまいました。四月は君の嘘を読んだときは号泣してしまいました、文字通り。

そんなことを会場までの道中何度も思い出しながら母とともに会場で演奏を聴きました。ピアノリサイタルはこれまで数えるほどしか鑑賞したことがなかったんですが、、感想を色んな人に伝えたい、と思いながらもその力を持っていない悔しさとか、言葉の届かない広がりとか、そういったものを感じて、これまた世界から抜け出せなくなりました。批評のように言葉にするのが失礼に感じてしまうような気持ち。ただいえるのは「よかった」、いろんな気持ちを集約して、出てくるのは「よかった」、この一言なんだなと身につまされました。

なにかを話し合ったりする際に、主に大人って、お互いのステージを探り合うような行動をとりがちだと思います。明確なレベルがあるわけじゃない部分でね。「あなたは知識力3、私と一緒ですね、じゃあいっしょに話しましょ」そういうふうにはいかないから、日々の言動や行動で「自分の受容器官を通じて」相手を値踏みし、そして、気が合いそうだなとか、この人とはちょっとわかりあえそうにないや、なんて相手を蔑んでみたりして、でもそれを出さないようにニコニコとした笑顔を作ったりしている。意識的にも無意識的にも。子供だからしないってこともないから、本能的なものなのかもしれません。

人を好きになるときって、どうしても相手との同質性に着目しがちだと思うんです。(私は前提として恋愛じゃない話をしているけど、最近では恋愛もそうかもしれない。マッチングアプリとかでも「同じ趣味」の相手を見つけたりするだろうし。)人を理解しようとするとき、どこかで自分と同じ部分を探してしまう。この人って癖があるけど、でもこういうとこって私と似ててわからなくもない、みたいな。その一点で、短所も「憎めない部分」になったりする。
最近、これがとっても危険な落とし穴のような気がしていて、注意しないとって思ったりしてます。同質性ではなくて異質性を愛せるようでありたい。自分と全く違う、理解しあえそうにない、そんな人とできたら仲良くなりたいと思うのです。この部分は主に若い頃は恋愛というホルモンマジックで補完されていた部分なのだと思うけれど、どうしても年々、意識していかないと同質に寄ってしまうし、きっとそれが停滞につながる気がしていて。…つまり今停滞しているっていう自覚があって、それで危機感を持っているってわけで。
同じことの繰り返しで生きていく。ものすごく難しくて、憧れていたこと。
同じことの繰り返しで生きていく、多少これができるようになってきた気もするけれど……

もっと臆せず広い視野をもって変化に伴走していくためには、今のままではいけない。私自身はともかく、子供の可能性を潰さないために頑張ろうと、そんなふうに思わされたのでした。

変わるのは自分。自分の意思でしか行動は起こせない。
だけどそのきっかけはいつだって外から得るのだという当たり前のことを再認識。もっと知らないことに触れていこうと思いました。世界は広いし人生は長いのだ!
(おしまい)

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