sophisticated

 目覚ましの濃いコーヒーを淹れ終えた午前六時五十分、アーダルベルトがダイニングテーブルをはなれて東窓のカーテンを握るのと、彼の同居人が視界の端でブランケットを抱え込み、気怠い寝返りを打つのとはおおよそ同時だった。部屋のひとすみに居座るダブルベッドのうえでは、少し色の抜けた作り物のアッシュブラウンが白い枕に浮いている。朝を遮蔽された広いワンルームはすべてが半音下がったように薄暗く、壁を向いて体を丸める彼の足下だけが、ベージュ色のカーテンから漏れ出す透明な一本の朝日で貫かれていた。アードを見遣ることなく枕に顔を埋めてしまった彼の表情は、アードの立つ位置からでは覗けなかった。
 街の中心からはすこし離れたこのアパートの朝を満たすのは、進歩を拒絶する静寂だ。分厚い窓硝子によく似て浮かぶその存在が、カーテンのこちら側へ朝がもたらす一切をアーダルベルトとヨウの二人から遮断していた。小鳥の鳴き声、階下のパン屋が開けるシャッターの音、車のエンジン、まだ少し冷たい風の匂い。光には音がある。じりじりと白色を灼く、半透明の三斜晶。ヨウの右足が、漏れ込むそいつを気だるげに蹴飛ばした。
 薄く目を開いた彼を横目で見やり、アードはカーテンを両手で開いた。二人暮らしの広いワンルーム東の窓から、百八十六センチのアードが両手を広げた大きさの朝が、窓の前のアードと、白いベッドとその上のヨウの真上にたしかな質量をもって、しかし呼吸を止めることなくしたたかに降り注ぐ。ヨウは逃げるように、ベッドの端へと転がった。顔を覆う右腕を引きはがし、ようやく開いたヨウの瞼の下に、アードは鷹揚に唇を寄せた。ひとつ触れさせ、「Morgen」と声をかける。返事のない空間で、たっぷり三十秒太陽の眩しさに目を細めたあと、ついに彼の名前を呼ぼうとしたところでヨウはやっとベッドの上に体を起こした。
「Wie geht's(調子はどうだ), mein Liebling?」
覚醒しきっていない耳元にアードが囁く言葉が終わる間もなく、ヨウは彼の首に両腕を回した。「Morgen(おはよう)」も言わぬまえから求められる口付けに素直に応じ、アードはヨウの抱擁に体を任せる。くすんだ茶色の髪が、元々どんな色をしていたのかを知ることはない。けれど、アードのなかの「ヨウ」という存在に、黒という色は調和しなかった。それでも、彼にもうひとつ実存を与えるならば、きっとそれは光に透き通ることはないのだろうとも思う。アードの背中を握る筋の細い十本の指と、ときおり空気を奪う薄いヨウの唇が生み出すひとつの世界は、きっと光でさえも支配ができない。
「コーヒー飲むだろ、ヨウ」
「ん」
 ベッドに背を向けたアードの耳に届く気の抜けた返事は、表面を波打たせすぐに空気に融けていった。まだ白い布団の上に腰かけたまま、ヨウの細い指は寝間着代わりに羽織っていたシャツのボタンをひとつずつ留めていく。アードが振り向く瞬間、ヨウはその動きを止めて「アディ」と彼の名を舌に転がした。彼が唇から紡ぐのは何度も聞いた声と言葉であったが、それでもアードの鼓膜と背中は小さく震える。稠密であるのに中身を持たない、朝日を乱反射して鈍く空間に姿を描く柔らかな球体。
「Morgen, Darling」
 ほんのわずかに口角を上げ、ヨウは目を細めて微笑んだ。(感情に名前を付けることは能わない。しかしそれは限りなく畏怖(いふ)に近い旋律だった。)彼のつくりだす音以上にこの感覚を励起するなにかをアードは知らない。朝の光の眩しさも、挽きたてのコーヒーの匂いとウィーンの街の為す色も。彼の前ではすべてが無力だ。

 アードがヨウを見つけたのは、二十の歳の晩秋だった。ウィーンの街のしとやかな喧騒から大股で四歩はなれた郊外を、その日ふらふらと歩いていた理由はもう覚えていない。けれど、ふと耳に届いた微かな旋律が、細やかな硝子細工のように目の前に広がった。砕いてはいけないとの直観の下に足を止められ、呼吸を潜めた。ゆるゆると風のない空間を流れてくる、完全に透明であるのにかたちの見える音。触れそうでいて、融けてしまいそうなあえかなピアノの音色。
 ドアから漏れ聞こえてくるラフマニノフに背中を押されて、足を踏み入れた小さなカフェの中に彼は居た。広くはない店内の片隅には、この空間にひどく不釣り合いな大きさのグランドピアノが据えられていて、指輪ひとつない細い指が「鐘」を鳴らしていた。それは、平穏と休息を求めて腰掛けたカフェの椅子で、ペーパーバック片手にコーヒーに口付けながら流し聴ける類の音楽では決してない。だというのに、カフェの客はだれもがその音をただしくそこにあるものと受け容れていて、その不均衡に目が眩む。目の前にコーヒーが置かれたことにすら気が付かず、ただ重さを持たない透明の欠片に視界を埋められ瞬きすら許されないアードの姿に、ピアノの前に座った線の細い東洋人の青年は一瞬だけ視線を向けた。歯車が噛みあうように、すべてが完璧に調和する。音と音が、音と空間が、彼そのものとここという場所が。その指が鍵盤の上で止まることはない。背骨と背中の間で細かな泡が次々と弾けて首筋までのぼっていく。アッシュブラウンの髪がふらりと宙を泳ぐ。彼のラフマニノフはとうにこの空間の一部となっていて、いまそこに調和できないのはアーダルベルトただひとりだ。それを直感してもなお、身を委ねてしまうことはできなかった。この、内側から心臓を揺らしてくる所在のない感覚と、目の前をまたたく美しい透明を失ってしまうわけにはいかない。
 ラフマニノフを弾き終わったあと、青年は近くのテーブルで新聞を広げていた初老の男性のリクエストを受けて、エリック・サティの「Je te veux(きみが欲しい)」を弾き始めた。カフェに似つかわしい曲が空気を揺らし始めてようやくアードはコーヒーカップを手に取った。コーヒーが冷めるほどの時間ですらなかったというのに、心臓はいまだ高鳴ったままだった。
 そのまま有名な数曲を美しく弾きこなした彼は、軽く会釈をして椅子から立ちあがり、迷うことなくアーダルベルトの席にやってきて向かい側に腰を下ろし、コーヒーを注文した。その一連の動作をあまりに当たり前に行う姿にアードはいっとき言葉を失い、彼はその間に品定めをするような目でアーダルベルトの顔を眺めた。年齢の読みづらい、整った東洋系の顔立ちの彼は、それに見合った濃いブラウンの瞳をしていた。
「聴こえてた?」
 青年が微笑を浮かべる。なにを、と聞く前にアードの口からは「Ja(ああ)」の言葉が滑り落ちていた。たしかに、聴こえていた。この空間にいる他のだれもが存在を意識しなかったあの音が。自分自身と言う実存を、内側から揺り動かす透明な音。透明であるのに、そこにあるとわかる音。
「巧(うま)かったな。そういう仕事?」
「や、ここの親父さんに世話になってるからたまに弾いてるだけ。専門はピアノじゃねえよ」
「学生か?」
「そうだよ。そこの音大。まあ、つっても交換留学で一年来てるだけ」
「——俺も、そこの学生だけど」
「そんな気はしてた」
 発音だけは流暢だが文法をひどくないがしろにしたドイツ語を話す彼は、アードが名前を問えば「ヨウ・サカガワ」だと名乗った。管楽器専攻で、本職はクラリネット吹きだと言う。学年まで同じだという偶然に、ヨウはさして驚く素振りも見せずに「ふうん」と気のない返事をした。
「なにが聴こえてた?」
 首を傾げて口元に笑みを浮かべ、ヨウがアードに投げかける問いの意味はやはりわからなかった。けれど、どう答えればよいのかは知っていた。
「透明な、歯車が見えた。時計の中身みたいに、巧緻で精密な」
「は、難しい言葉使うなよ」
 目を細めたヨウは、コーヒーを一口飲み下してアードに「おまえの名前は?」と問うた。ここに至るまで、名前すら聞かれていなかったことにそのとき気が付いて、アードは手に持っていたコーヒーカップをソーサーの上に戻した。
「アーダルベルト・シュヴァイツァー。弦楽専攻二年、バイオリン弾いてる」
「長ぇ名前だな。もうちょっと短くなんねえの?」
「アードでもアディでも好きに呼べよ」
「——じゃあ、」
 ヨウはアードのアンバーの瞳を覗き込んで、唇を開いた。言葉が現れる、ことばにできないかたちを持った音。触れれば崩れてしまう、形而上の無彩色。
「俺の音、ちゃんとおぼえといてよ。アディ」
 囁くようにそう言ったヨウの声がアーダルベルトの目を眩ませた。

 目を凝らしてみれば、「ヨウ・サカガワ」の名は大学の中でも外でも飽きるほど聞くことが出来た。齢十九にして、最高の権威と名高い国際コンクールで文句なしの第一位を獲得した日本人の彼は、その年の審査結果において第二位を空席にするという偉業を成し遂げてしまうほどに桁外れの天才であって、思わず言葉を失うほどに美しい彼のクラリネットの音色を、ひとりのイギリス人が〝fatally beautiful〟——のちに、日本では「傾城」と訳されたらしい——だと評したエピソードは至る所で語られていた。これまた著名なトロンボーン奏者を父に持つという血統書付きの天才は、たしかにそれなりに人目を引く整った容貌をしていたし、事実アードが知る限りでも人気の高い男だったが、同時に、バイ・セクシュアルである上にとんでもない色好みで、毎晩のように男女も問わず誰かと関係を持っているという噂もあらゆるところから聞こえてくる。アードと昔馴染みのチェロ弾きは、「掴めない男だ」と息を吐いていた。その後彼はにやりと笑い、「おまえはたぶん、あいつを好きだよ」と肩を竦めた。
 それでいて、アードが再びヨウを見かけたとき、彼は誰とも連れ立たずにひとりで大学構内をふらついていた。遠目で見れば見るほど頼りない体躯をした白いシャツの男は、後ろから近付いたアードが声をかけるまえに振り返り、わかっていたかのように「いつぶりだっけ?」と笑みを浮かべる。どうしたって背筋が粟立った。ヨウの前では、なにもかもわかられていると、ひとつの根拠もなしに盲信しそうになる。それは畏怖であって、ある種の恍惚(こうこつ)でもあった。だというのに、彼にはそもそもなにかを知ろうとする意志はない。ひどい矛盾が、形を持ってたしかに両立する。ひどくアンバランスな破片の上にヨウはあたりまえのように腰掛けていた。彼にかかれば、あらゆるものは必然だった。
 大学内で会話をするようになってから、アードが彼の数多いるセックス・フレンド(ヨウは、来る者拒まず去る者追わずを理想的なまでにただしく貫いていた)の一人となるまでにそう長い時間はかからなかった。アーダルベルト自身、生粋(きっすい)のバイ・セクシュアルであってある種ひどく奔放な生活を送っていたのもあり、後腐れという言葉を知らないヨウはただ体を重ねる相手としてはうってつけだった。
「血統書付きの坊ちゃんが、両刀(バイ)で節操なしの色狂いだとか世も末だな」
 ベッドの端に腰掛けながら思い出したようにそう呟き、嘲るように笑って煙草に火を点けたアーダルベルトを眺めながら、ヨウはゆるりと目を細めた。アードが吐き出した白い煙を目で追って、それを纏うような緩慢な動作で皺になった白いシーツの上で起きあがる。煙草を指で挟んで口から離したばかりのアードにキスを強請り、吐き出しきれなかった煙がヨウの肺に流れ込むさまを考えるとアードの視界には小さな立方体がいくつか揺れた。
「狂ってんのはおまえも同じだろ」とヨウが呼吸とともに答える。
 息を吐いたヨウは、慣れない煙に途端数回咳き込んだ。「バカ」と罵るアードの脚を踵で蹴りつけて、ベッドにまた身を投げ出す。彼がそこにいることを確かめて、アードは銀色の灰皿に吸殻を押し付けた。
「大体、天才なんかやってる奴はほとんど気違いだっつの」
 宙を眺めて呟いたヨウの言葉は、なぜかアードの耳に残っていた。真白で扁平(へんぺい)な三角形が一瞬浮かんで、すぐに粉となった。二本目の煙草に火を点けたアードに、ヨウは今度はキスはせがまなかった。

 ヨウはその数か月後に自国に帰り、日本で大学を卒業したのち、二十二の歳に大学院で再びウィーンに戻って来た。アードに会うなり「老けたな」と笑った彼は、少し赤みの増した髪色を除いては、顔立ちも体格も、両耳にひとつずつのピアスの数も、驚くほどになにも変わっていなかった。
 つい先月まで同棲していた彼女に逃げられたアーダルベルトのところに、住処(すみか)を探していたヨウが転がり込んできたのは彼らにとってはひどく自然な流れだった。ヨウは生活を営む上であらゆることに無頓着であって、自分の持ち物の置き場も、部屋の間取りやレイアウトも、持てあまされていたダブルベッドでアードの横に寝ることも、なにもかもをまったく意に介さなかった。同じ住所を持っていながら、アードもヨウもお互いの生活に、きまぐれを越えて干渉することはしなかった。ルームシェアを始めて一年経ってもなお、ヨウはアードのフルネームをただしく綴ることが出来なかったし、アードは「ヨウ」が自分の隣にいる男の本名ではないということを知らなかった。アードが、無造作に投げおかれていたヨウのパスポートを広げたときに知ったことだ。
「知らなかったぞ」とアードはヨウにパスポートを投げ返す。
 ヨウはそれなりに長い時間、アードの言葉の意味がわからなかったようで怪訝な顔をしていたが、彼の開いていたページに気付いて合点がいったのか、「名前のこと?」と聞き返してきた。アードが頷くと、「別にどうでもよくねえ?」と、ヨウは開いた自分のパスポートを眺めながらソファの背にもたれかかった。
「知ってたかった、とか言う?」
「言わねえけどさ。驚いただけ」
 煙草の箱とライターを持って、アードがカーテンを開ける。午後十時、ベランダへの窓は姿見のように室内の光景を反射している。彼は裸足のままベランダに出て煙草に火を点けた。ヨウはソファに腰掛けて、鈍く光を持つ夜の街並みに向かって白い煙を吐き出すアーダルベルトの後姿を眺めている。開け放たれたままの窓から入り込む冷たい風に体温を奪われて、ヨウは透明な息を吐いた。
「アディ」
 パスポートを閉じた右手がそれを近くのテーブルにぞんざいに置いて、ヨウはソファから立ち上がる。アーダルベルトの名前を呼んだ声の主は、気が付くとアードのすぐ隣で彼のポケットを探っていた。細い指が、安い煙草を一本摘まみだす。それを唇に咥えたヨウは、わずかに踵を浮かせて、自分より十二センチ背の高いアードの顔に向かって首を逸らした。
「ショウに怒られんぞ」
「おまえが言わなきゃばれねえだろ」
 溜息を吐いたアードが、それでも自分に火をくれることをヨウは知っていて口角を上げる。アードは身を屈めて、咥えた煙草の先でヨウの煙草に火を点ける。思いのほか慣れた手つきで煙を吸い込んだヨウを横目で見たあと、ベランダの手摺りで自分の火は消した。ほかに誰の姿も見えない夜の空間に、灰がいくらか落ちていく。目の前の空間を白く曇らせながら、ヨウの目はそれを眺めていた。
「おまえに、どうでもよくねえことってあんの? ——音楽以外に」
 吸殻を弄びながら投げ出したアーダルベルトの問いに、ヨウはしばらく答えを返さなかった。手摺りに肘を乗せて頬杖を突き、吐き出した煙の向こう側をぼんやりと見遣ってまた煙草に口付ける。星も見えない曇り空には、月だけが雲の後ろ側でおぼろげに光っている。近くで走り出した車のエンジン音が、アードの視界に大小さまざまの六角柱をちりばめて、やがてどこかへ消えていった。アードに見えているものがヨウに見えることはない。それをたしかにわかっていたとしても、ヨウの視線の先にそれがあるのではないかという気分になって、頸動脈で炭酸が緩く弾けた。
「考えたことも、なかったけど」と、ヨウは呟いた。
 透明が生まれる。空間と空間のあいだ、存在することとしないことのちょうど中間。アーダルベルトは瞬きをした。
「クラ吹いてなきゃ俺じゃないのは、確かじゃねえ?」
 そう言ったヨウの表情は驚くほどなにも変わらなかった。わずかに風が髪を揺らす。細い指に挟まれた煙草の先がゆるりと崩れ、灰が粉となって夜に落ちていく。ヨウの指が美しいのは、右手親指の胼胝を目立たせるためなのかもしれないとアードは瞼を閉じた。
「じゃあ、俺は三年前、ラフマニノフを弾くだれと出会ったんだろうな」
 新しい煙草に火を点けることはせず、ただ瞼の裏側で泳ぐ光の残り香を眺めている。ヨウが短く息を吐いたのが目の前に見えた。ただ、そこにあるものとして。
「そういうの、テツガクテキな質問って言うの?」
 瞼を開けば、ヨウの横顔は薄く笑っていた。見えないはずの星が散る。硝子ほどに鋭くはない、銀白色の細かな欠片。雲間から覗く月明かりに目をやって、すべてを視界から追い出してアーダルベルトは笑みを浮かべた。
「バーカ、——揚げ足取りっつーんだよ、ダーリン」

 真冬の真夜中、白い息を携えて午前二時にヨウが玄関の鍵を開けた。ぼんやりとテレビを眺めていたアーダルベルトは、珍しいと思いながらソファから腰を上げる。ヨウのことだ、夕飯までに帰ってこないのであれば、朝まで帰ってこないかいっそ家には戻ってこないことのほうが普通だというのに。それでなくたって、終電もとっくに終わっている。理由を聞く気はそもそもなかったけれど、ただ不思議に思った。
「ヨウ?」
 クラリネットケースを下駄箱の上に乗せてブーツを脱いだヨウの唇にキスを落とせば、ヨウはそれを拒みこそしないものの、大抵のように自ら首に腕を回して舌を絡めてくることもなかった。珍しい反応を怪訝に思ってアードが顔を離すと、ヨウは眉をひそめてひとつ息を吐く。暗い玄関では窺い辛いが、この季節であるにも関わらず額に汗が浮かんでいた。
「体調でも悪いか?」
 立ったままアードの肩に顔を埋めたヨウへ問うた言葉には、しばらく返事はなかった。返事をしないのではなく、ただ聞こえていないだけだと直感する。案の定、ヨウは向こう側がはっきり見えるほどに密度の低い声で、アードにテレビの電源を落とすよう懇願した。
 ヨウをベッドの上に放り出して、アードはソファの上に投げ出していたリモコンの電源ボタンを押した。恐ろしいほどに性能のいい彼の耳は、ときおりアレルギー反応のようによく働きすぎるがために、普段は意識の外に追いやっている微かな物音がすべて鮮明に聞き取れてしまい、音の取捨選択ができなくなる。それらがすべて頭の中に音階を持って渦巻いて、無秩序な不協和音が神経をかき鳴らす。喧騒のはるか向こう側で交わされる会話は一言一句聞き取れるのに、自分の隣で友人が話す言葉は耳に入ってこない。曰く相当に気分が悪いのだと、アードはかつてヨウから聞いていた。
 ふらふらと毛布の間に潜り込んだヨウは、いつも以上に身を丸めて呼吸を潜めた。ネクタイを緩めようとする指にあまりに力が入っていなかったから、代わりに緩めて抜き去ってやれば、ついでにボタンとベルトも外してくれとねだられた。アードには無音だと思える空間すら、いまのヨウにとっては苦しいのだろう。エアコンの稼動音、自分の身じろぎでベッドが軋(きし)む音、呼吸音、電球の灼ける音。そんなアードの視界に写りもしない音にすら耐えられないいまのヨウにとって、かたちと質量を持つ音と言葉の絶えないこの部屋の外側は、たしかに酷な空間だ。
「ヨウ」
 呼びかけるときは、ゆっくり、はっきりと聞こえるように発音する。アードの声も周りの雑音も同じレベルで聞こえているいまのヨウは、誰かの声だけを抽出して聞き取ることにすらひどく神経を遣うのだ。許容量を越えて受け入れきれない情報が、少しあがった呼吸と冷や汗を通じてなんとか外へ逃げていこうとする。ヨウが、この細い体ひとつで受け止め続けてきたものの重さがここにあるように見えた。ヨウはそれを辛いとも苦しいとも言わないし、おそらく彼はそもそもそういう感情を覚えるようには出来ていない。しかし線の細いひとりの青年が、彼にはどうしようもできないなにかしらに呼吸を阻害されていることだけは事実だ。それを哀れに思うべきなのかどうかは、アーダルベルトにはわからなかった。ヨウという人間が、実際のところどこにいるのかは、よく知らない。

 目を醒ましたとき、その実感でアードは自分が浅い眠りに落ちていたことに気が付いた。現実との狭間でなにかを見ていたような気がするが、それが想起であるのか空想であるのか、夢であるのかはうまく思い出せない。ただ、ヨウの音が見えた気がした——それどころか、この感覚がヨウの奏でる音楽そのものだ。いつの間にか誰かの世界にあたりまえのように融けこんでいて、そのひと自身の思惟を溶かしていく感覚。現実から夢への遷移層。
 隣に寝ていたヨウが寝返りをうって、瞼を開いたアードに目を合わせた。彼が眠っていたのかどうかはわからないが、ヨウはアードの名前を呼ぶことはしなかった。アードも、もう大丈夫なのかと問いはしない。それが必要な間柄ではないし、必要以上の干渉は一欠片だって求められていない。ヨウはひとつ呼吸を吐いて、ゆっくりと両の手で自分の両耳を塞いだ。
「聴こえてる?」
 アードの言葉にヨウは視線を向けることもしないまま、ゆるりと頷いた。彼の耳に、音が届かなくなることはありえない。彼という存在として、ありえない。(だとしたら、錯綜する音の情報に混乱して、自分の懐で囁く声を聞き取れもしない瞬間のヨウは、いったいどういう存在だと言うのだろうか。彼は、そうやってときおりいとも簡単に自らの所在を失ってみせる。)
「アディ」
 ヨウはただアーダルベルトの名前を口にする。左手が左耳から離れてシーツの上に落ち、右手首はアードに掴まれる。細い手首からはたしかに脈打つリズムがアードの指を震わせて、その不連続に視界をちらつくさまざまの破線が、ヨウがいまこの場所で真に物理的な存在であり、肉体を持った生命であるというわかりきった事実をアードに伝えてくる。
カーテンを閉め切った日の出前のワンルーム、ヨウはそのまま長いこと言葉を発しなかった。厚いカーテンの向こう側で、空はわずかに白んできたが太陽はまだ現れない。アードに掴まれたままの手首を振り払うこともせず、反対の腕を自分の顔の上に乗せてヨウが呼吸をする。呼気の形で、眠っていないことはすぐわかったけれど、アードは彼に言葉を求めることは放棄した。
「——ヨウ、おまえさ」
 その先に、なにも続かないことはお互いにわかっていた。瞼を閉じて浅い口付けを落とせば、ヨウはアードに手首を握られたままの右手で彼の頬に指を這わせた。アディ、と唇が音もなくその名前を形作る。彩度の低い午前四時の室内と、同じ温度をしていた。カーテンの隙間からは、いまだ常闇(とこやみ)だけが覗いている。色もない音もない、明確な形すら持ってはいない。
 ヨウが空の左手を自分の耳にやるより先に、アードの右手がその場所に触れた。耳殻をなぞる指がかすかに震える。(ただしく偶像であることが、運命であり望まれた彼の生き方であるのだろうか、と考えたとき、ときおりひどく悲しくなるが、そんな一切合財ははてしなくこの男自身の思惟には無関係だとも知っている。)銀色のピアスがアードの人差し指に触れた。耳朶(じだ)にあいたひとつの小さな空洞と、そこに突き刺さるもの。彼の手が彼の体に穴をあけたその一瞬を思い描いて、それと同じ秒数呼吸が止まった。瞼の裏が極彩色に明滅する。現れては消える光の粒と、閉じた視界を埋めつくしていく名前の付けがたい柔らかな立体が、アーダルベルトの気管を閉ざす。
「アディ、何時に起きんの」
「俺は、七時には起きるよ」
「じゃあ、俺も起こして」
「わかった」
 右手に握った針でこの薄い五ミリの皮膚を貫いて、赤い血の球を生む感触を、アードはヨウの声の透明とともに飲み下した。ヨウが寝返りを打ってアードに背を向ける。白いシーツがわずかによれた。ヨウが蹴り飛ばしたブランケットを肩までかけ直して、覗き込むように頬に唇を寄せる。ヨウはかすかに身じろいで、けれど瞼は開かなかった。
「Gute nacht(おやすみ), mein Liebling」
 囁いた声が、彼のどこかには届いていることをアーダルベルトは知っていた。厚いカーテンの隙間から、冬の光が一筋零れるまでは。

今後の創作活動のため、すこしでもご支援を賜れましたら光栄に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。