藁を掴む手

溺れる者が藁を掴もうとするとき、その力はあまりに強い。
私はこれまでの人生で一度だけ、掴まれる藁の気持ちを味わったことがある。10代前半のころだ。それはいわゆる習い事で、定期的に同年代の者が集まる場でのことだったが、私がひとりでぼんやりとしているところへ声をかけてきたのがその人だった。
その人はとにかくひどく萎縮した様子で「友だちになってくれないか」というようなことを私に言った。何か不安を抱えているのは一目瞭然だったので、私はできるだけ相手の気持ちを和ませたくもあり、気軽に了承した。

さて、私自身がわりと人付き合いに対して無精ということもあり、当時の私は「友だち」と心を預けあうような付き合い方はしていなかった。
「友だち」といえば、まあ「旅先で観光地までの道中を偶然共にした行きずりの人」程度の認識だった。傍に居れば互いに楽しく過ごせるよう振舞いを工夫するが、その人がいなければ寂しい、とか、用がなくても話すだけで幸せ、とかいった感情が私にはまるで育っていなかったのだ。

私に声をかけてきたその人は、とても繊細で、何かをひどく恐れているようにみえた。ともかく、その人の恐怖の素因をしいてつくらないようにすれば、なんとなく互いに楽しく過ごせるようになるだろうと私は思った。そしてその「行きずりの旅」が終われば、また互いの道はなんとなく分岐してなんとなく疎遠になるだろう、と。

しかし、その人が私に求めていたのはそういうものではなかった。

おや、と思ったのはわりあいすぐだった。その人は自由時間のたびに、私のところへやってきて何かしら話をした。はじめこそ、私は相槌を打って会話しようとしていたが、じきに相手が相槌を必要としていないらしいことに気が付いた。より厳密にいえば、「会話が絶妙に噛み合わない」のだ。
その人の話には、とても個人的で、かつ絶対的な、「文脈」のようなものが存在していた。私がその流れに擽りをいれようとおどけてみたり別の話題を放り込んだりすると、その人はちょっと困ったふうに曖昧に沈黙し、再度口を開いたときには自分の「文脈」の中に帰って行ってしまうのだった。私の話をまるで聞いていないというわけでもなく、わずかな反応もないではなかったが、ただ「会話」というにはぎこちないやりとりだった。

そのうち、私が相槌を打たなくなっても、その人は足繁く私のところへやってきて、ずっと何かを話していた。今となっては内容はあまり覚えていないが、その内容のすべてに共感できるわけでもなく、かといってこちらからは上手くその人の内的な世界に働きかけられないので、私は完全に困ってしまった。
私の都合にお構いなしに、とにかく私が何もできないくらいずっと傍に居た、というのも私が困った理由のひとつだった。その人の話を聞くことだけに専念しなければならないのだと暗に行動で示されているようで、疲れてしまった。あるとき、上手くやりすごせないかと狸寝入りをすると、その人はなんと私の肩を揺すったり腕をつついたりして、どうにか私を起こそうと試みた。これには私も舌を巻いた。

ひとこと、私が「もうやめてくれ、迷惑なんだ」と強く怒ればよかったのかもしれない。だが私にはどうしてもそれができなかった。とにかく、その人はいつも何かに怯えていた。私がわりと露骨に面倒そうなそぶりを見せても、私に対して怒りをぶつけてくることは決してなかった。その人はただ、何かに怯えて、溺れる寸前のところで死に物狂いで私の腕をつかんでいた。私には、その苛烈な一途さに、思うところがあった。

それで私は、その人を岸に引き上げることもできないのに、無力な藁としてその人の両手にしっかりと握られ続けることを拒否もせず、しばし困惑しながら濁流の中を漂った。私には見えず、その人にしか見えない濁流の中を。


どのような経緯だったかは忘れてしまったが、結局のところ、その人ともほどなく疎遠になった。せいぜい1~2か月の短い付き合いだったように思う。その後もときおり互いに姿を見かけたが、私は気付かないふりをした。向こうもしいて声をかけてくることはなかった。それから、やがて互いを見かけることもなくなった。後ろ暗い安堵と、一抹の罪悪感を抱いて、私はときおりその人のことを考えた。そして、やはりどうしたらよかったのかわからなかった。

もうずっと前の話であるから、ほとんど思い出すこともなくなっていた。
ところが最近、ようやく一握りの友人らしい友人を得て、彼らを大切にして関係を続けていくことを覚え始めて、私はふいにかの人のことを思い出した。
あのとき、私が「行きずりの人」としてでなく、本当の「友人」として、かの人に向き合っていたら――たとえば、もっと本気で怒ったり笑ったりしていたら――ひょっとすると互いに何かが変わっていたかもしれない。良くも悪くも、互いに互いのほとんどを費やし合い、強く痕跡を残し合う――いや、跡形も残らないような、文字通り「一生もの」の付き合いになったかもしれない。
あるいは何も変わらなかったかも。

あの頃の私たちは、きっとどちらも「友だち」が何なのかわかっていなかった。それに加えて、かの人の抱える強烈な寂しさに、冷淡で未熟な私は踏みこめなかった。子どもだった互いの手に余る、アンバランスな関係だった。かの人が必死で掴んだ私はただの無力な藁だった。
それでも、かの人は決して、やり場のない怒りを私にぶつけなかった。その一点に、私はかの人の善性を感じてやまない。時を経て記憶の瑣末が風化するほどに、その一点の価値が浮き彫りになる気がする。だからこそ当時も、私にとって疲れる関係性ではあったけれど、私はかの人を「悪い人」とは一度も思わなかったのだろう。

かの人は当時のことを覚えているだろうか。私でない、良き友人に恵まれていてほしい。濁流に呑まれながら藁に夢をみて恐怖を紛らわすのでなく、本当の岸辺に辿りついていてほしい。

こんなことを平然と思う私は、相も変わらず酷薄なのだと思う。

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