言葉の多義性と心の写像

私には人間関係における悩みがある。意思疎通がおそろしく下手なのだ。
勿論(と胸を張ってよいのか……)面と向かってする会話も苦手なのだが、文章で意思を明示するのもかなり苦手である。個人的には、はっきり伝えようと工夫しているつもりでも、相手と会話や書面でのやりとりを重ねれば重ねるほど、相手がこちらの意図するものを全く共有していないと気付いて戦慄する瞬間がある。一番心がすり減るのは、友人と少し踏み込んだ内容の会話をするときだ。前提条件の共有の時点で相手を誤解させたことに、ある程度議論が進んでから気付き、軌道修正をはかり慌てて説明を重ねるのだが、説明すればするほど、しばしば相手はさらなる迷宮へと迷い込んでいく……こちらは「なんでや……?」と無力感に苛まれる。

つい最近まで、その理由がさっぱりわからなかったのだが、ようやく尻尾を掴みつつある。どうやら私には「多義的な言葉を、その複数の意味が一文の中である程度同時に協働することを想定した上で、その奥行きごと多用する」無意識の癖があるのではないかと思う。
私の発言から、言葉の持つ限定的な意味を拾う人もいれば、いくつかの意味を同時に拾う人もおり、また多義性そのものを指摘して「言い回しが曖昧だ」とか「結局何を言いたい?」と訝しむ人もいる。
それが総じて、私のコミュニケーション上の障壁になっている気がするのだ。

弁明すると、別に玉虫色を気取りたいわけでも、特定の攪乱効果を狙っているわけでもない。そもそもこれが変な癖だとは考えもせず、皆同じような感覚で発言していると思って疑わずに生きてきた。正直なところ、こうして弁明しながらも、自分自身がこの理由付けに対して未だに半信半疑でもある。主観としては、「たまに出る癖」というより、私が発するすべての言葉に適用されている「文法としての骨組み」に近いからだ。おそらく多くの人がこうした感覚の核を持ち合わせているはずだとは思いつつ、私のように「そこに無意識に言動を寄せていってしまう」という他者を認識したことはまだない。絶対にいるはずだし、会えば互いに一瞬で相通ずるものがあると思うのだが……なぜ?それがいちばんわからない。みんな隠し方が上手いのか?

さて、それはさておきこの癖には七面倒なことがある。
これが無意識なフィルターとして機能して、会話から相手の思考の癖を垣間見てしまう瞬間があるのだ。
ある程度の多義性を無意識下に想定して発言するということは、相手がそれを取捨選択するのを意図せず目の当たりにするということでもある。心理テストの選択肢を何気ない会話に織り交ぜるかの如く、多義性の網を張り巡らせてしまうのだ。別に、相手に探りを入れてプロファイルしたいわけではないのにもかかわらず。

自分自身、こういう感覚があることをどう説明したらよいのかわからず、また単に思い込みの激しさや考えすぎな性質からくる感覚なのではと訝しんできたこともあり、あまり人に話したことはないのだが……人が誤解する瞬間のようすや、その人が抜け出しきれない特有の定義・意味づけ(しかもプライベートな生活領域に由来すると思われる)などを、無意識のうちにかなり生々しく感じとってしまい、ひどく疲れるのである。
しかも、その疲れはあくまで無意識の感性が感じとる疲れなので、たとえば「あまり好きじゃない彩りの絵をみた」とか「嫌な響きの音楽を聴いた」とかいった生理的な疲れに近い。だからといって自身が絵描きや音楽家というわけではないので、しいて批評もできずにただモヤッとして終わる。そういうタイプのものなのだ。

相手の考えていることがわかって便利だと思えるのは、それに利用価値を見出せる人だけだ。
百歩譲って、この無意識な癖を研ぎ澄まし、相手の思考をつぶさに言語化できるほどフィルターとして昇華できたとしても、私はそれを利用して相手をどうこうしたいとはおそらく思わない。
自分の意図したことが「自分にとっての文字通り」に伝わらないのは正直へこむが、相手が何をどう感じ考えるかはその人の自由なのであって、そこに自分の働きかけが一枚噛むか否かは心底どうでもいい。
世間的な商品価値も特にない。あくまで、私の主観的な感覚に基づくフィルターだからだ。しいて言えば、真横で落ち込んでいる人を、自分なりの言葉で労わるときにだけ、ちょっぴり役に立つかもしれない。

総合すれば、多義的な言葉を無意識に多用して、ロールシャッハテストのように人の心を垣間見ることができたとしても、私にとってはただ「自分のコミュニケーション能力の無さを、手を変え品を変え、生々しく幾重にも己の眼前に突き付けるだけの残念機能」でしかない。「自他は完全に違う存在なのだ」ということを、その違いに対する尊重もなしに繰り返し繰り返し刷り込まれるのは、あまり気持ちのいいものではない。さらにいえば、自分の生活のそこかしこに浸潤する「他者の意図の生々しさ」に溺れるあまり、自分を確立しきれていない面すらある。「他者を映すだけの鏡になり果てる瞬間を虚しく感じる」とでも言えばいいのか……。

もうただただあらゆるものが面倒くさい。その面倒くささを思い知るたびに、自分を含めて人間という存在がどんどん億劫になる。

たぶん、本腰を入れて探せば似たような人は結構いるのだろうと思う。
こういう過ごしにくさを普段どう受け流しているのか、話を聴いてみたい気持ちはある。だが、実際に会ったら会ったで、合わせ鏡の要領で互いに見たくもない深淵を覗き込んでしまうだろうし、互いに出会わないのもひとつの幸せかもしれない。

何にせよ、何気ない発言の中でかなり無防備に言外の思想を晒してしまっている方は死ぬほどよく見かけるので、見抜かれたくないものを持ち合わせている方は、自分の道徳観念や価値観をよく天秤にかけた上で、差し支えない程度の真実を発言した方がいいと個人的には思う次第です。いや、そもそも見抜かれたくないものはとっとと捨てられるならそれに越したことはないんでしょうが……。
私も言動には気を付けているつもりではあるが、たぶん見る人が見れば自分が知らない自分の側面までいろいろ暴かれてしまうはず。

みなさんもどうぞ、お気を付けください。

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