私の「赤」とカタルシス

人は誰でも、自分の意識が「そう」知覚した仮想現実の中を生きている。
客観的な事実としての現実と、「自分が知覚している現実」は違う。そして人として主観的な知覚を以て世界を認識して生きる限り、「本当の客観的な事実」を知ることは誰にもできない。

何も、私は「客観的な事実が存在しない」などと主張したいのではない。ある林檎の色を指さして、あなたと私とで「赤」と共通の名前で呼ぶことはおそらくできるのだ。ただ、あなたの見ている林檎の赤と、私の見ているそれが、実感の上で必ずしも同じではないのだということだ。

たとえば、特定の波長をもつ光。その物理的事実を捉えた私たちの「実感」を、赤という記号的事実に置き換えてそのように嘯く。私たちのあらゆるコミュニケーションは、おおむねいつもそんなふうに営まれている。そして、その「赤」という記号的事実が何らかの文脈の中で、音や字面で以て表現されるとき、そこにまた物理的触感が生まれるのだ。理解だけの話ではない。心地いいとか悪いとか、ときにたくさんの感情の付随を伴う。コミュニケーションとはそういうものだ。
ある出来事をある人があらゆる手段で語ろうとするとき、そしてそれを誰かが知覚しようとするとき、そこには互いにとってのブラックボックスが無限に生じる。

当たり前のことなのだ。しかし、その当たり前のことが、私にはどうしても恐ろしかった。私は人と同じものをみて、同じように喜怒哀楽を感じることが苦手だった。物理的事実に対する知覚、感情の妥当性を、他者の中に求めることができなかった。当たり前だ。実感――心は決して共有できない。けれど、それはときに寂しいのだ。目の前で喜び合う人々の気持ちがわからないとき、私の心が私の中にしか存在せず、ほかの誰も私の心に気付かずに生きていけるのだと感じることは。ほかの誰もが、私が私の心をもっているということを、必ずしも想定しなくても生きていけるのだとわかってしまうことは。

心にはかたちがない。かたちがないものにかりそめのかたちを与えるものがあるとすれば、それはことばをはじめとした記号表現である。
語りさえしなければきっと自分の心は誰にも存在を気付かれぬままでも生きていけるのだと、そしてすでに自分がおらずとも完成してみえる人々のコミュニケーションの狭間でしいて自分の心を語る意味もないのだと、そう「わかって」しまってから、私は必要以上に何か自分の心を語ることができなくなってしまった。

しかし、私は何も「わかって」いなかったのだ。

人は心だけでは生きられない。食う、寝るところに、住むところ、心の外側の物理的事実を、自分の外側の何か、または誰かと、共有せねば生きられないのだ。強制的なつながりである。
私は近頃、過剰な忙しさを経験した。その物理的事実は、ときに心が介在する余裕もないほど圧倒的な容積を占めている。というより、心を介在させるといろいろなものが「間に合わない」のである。何かに深く傷ついたり怒ったりするとしばらく動揺で自分が使いものにならなくなることを知っているので、私は作業をこなすために、努めて自分が平静でいられる環境を作るようにした。誰も私を気にする余裕がない、私もまた相手に対して同じ、ならばできるだけ自分で自分の居心地のいい方へ。そのうち、成果に一喜一憂して作業が浮つくたびに「本当に今、感想を持たなきゃだめかな」と面倒くささすら感じるようになった。思い通りになるとかならないとか、考える暇もないほどに、圧倒的な物量の事実が自分の外側にはいくらでも存在する。物理的事実であれ、記号的事実であれ。いくらでも存在するのだ。

私の心という記号的事実は、その無限の事実のひとつにすぎない。
――ああ、ひょっとしたら、私は私の無力や、悲しみや怒りや、あるいは喜びさえも、忘れてしまってもいいのかもしれない。
ふいにそう思ったとき、私は人生においてはじめて、ある種のカタルシスを感じた。自由なのだ、ときに人は、自分の心からさえも解放されうるのだ。

そのような記号的事実が私の中に仮想されたとき、私はかえって自由にものを感じるようになった。感情が鮮明に、あるいは鈍くなり、見えなかったものに対する気付きや、見えていたものの忘却を伴って――もう元には戻れないのかもしれない――しかしそれでよいのだろうと私は思った。

人は不確かである。物理的にも記号的にも、変わり、移ろい、自分の手で以てすら自分を捉えることはできない。

意味などなくても何かが語られていいのだ。語られるまでもなく意味はあるのだ。あなたにも私にも、誰にも観測できない場所に。けれど、あるいはだからこそ、「あなた」が「赤」と言うそれを、私は私の眼で、あなたとともに眺めてみたい。そんなふうに思う。

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