パンドラの箱を開けるということ

多忙につきしばらくまとまった量の文章を書くのをさぼっていたので、久しぶりに何か書いてみようと思う。
今年は世界的に重苦しい春となったが、それでも春は春である。年度も変わったことだし、本年度の目標でも考えてみることにする。

人生には、たとえ解決のめどが立たなくても、抱えていかなくてはならない、あるいは気づかなければならないものごとが存在するものだと思う。
いわば、誰もが例外なく何かしらのパンドラの箱を持っている。
さらにいえば、「持っている」というより、自分がパンドラの箱そのものなのである。
そして、自らの手を汚してその箱を開けねばならない瞬間がありえ、自らの手で誰かに傷を負わせたことを悟り、自分も傷を負い、それでもその取り返しのつかないできごとの責任主体として与えられた生命を全うするのだ。

パンドラの箱が開くようすや、そこから噴出するものは、人によってまるで違う事象に見える。箱から飛び出した災いを強く認識し、翻弄され、打ちひしがれる人もいれば、底にある鮮烈な希望に目が眩む人もいる。

たとえば、私という記録媒体としてのパンドラの箱には、はじめは、過去に他者から刻まれたたくさんの「理不尽」の記憶がぎっしり収納されているように見えた。箱の中にそれがあるという気配だけでとてもつらくて、私は箱を開けることができずにいた。
しかし、幸運にも理解者・助けてくれる友に恵まれ、箱の底に希望の概念があるということを知った。それは「安心」の形をしていた。その希望をもっとよく眺めてみたくて、私はとうとう箱の蓋を取り払った。

私にとっては、一昨年度が「パンドラの箱を開け、残った希望を夢中で貪った」年だった。
そして昨年度は、箱から噴出したあらゆるよからぬものを再認識し、「確かに自分がその箱を開けたのだ」という責任を幾重にも理解した年だった。
パンドラの箱を開けるということは、単なるデトックスではなかったのだ。

希望を余さず見出し自分のものにするためには、すべての毒を箱の外へとひっくり返さねばならない。夢中で毒をかき分けて底の希望を貪っているうちは、それがどういう意味を孕んだ行為なのかなど、究極的にはわからないものである。希望を完全に貪りつくして、自分の腹を満たし、安堵の上に冷静さを取り戻し、新たな視野で以て周囲を見渡したときにはじめて、その意味に気づく。
私は、他者から受けた理不尽の記憶もたくさん再認識したが、それと同時に自分がやらかしておいて気づかずにしまい込んでいた、過去のあらゆる「よくない行い」の記憶も再認識することとなった。また、箱を開けるという行為そのものへの没頭に伴い、自分が現在進行形で他者にかけている大小の迷惑についても。

それらに気づいたときにはじめて、私は自分が何のために希望を手に入れたのか、何のためにその希望を行使するべきなのか、朧気に理解した気がした。つまり、自分の行動のよからぬ点を真正面から見据えて正すための、心の支えとしての希望なのだ。私にとっては。
この一連の行動・認識の遷移が、近頃私が身につけた作法としての「パンドラの箱の開け方」である。

本年度は、箱の周りに散らかしたもろもろについての掃除とお詫び行脚の年だと思っている。すべてにうまく始末をつけることはできまいが、それでも「自分の」失態の責任は、自分に帰属させておきたいのだ。

この先はただ切実に、できるだけ身綺麗に生きていきたい。物理的にも精神的にもである。この感覚は「許しを得る」ための窮屈で形式的な儀式への従属欲ではなくて、ときに人を押しのけてまで手に入れてしまったありあまる幸運の上にだけ、初めて成り立つ「自分の価値観」そのものだ。私がかつて死ぬほど焦がれたもので、手に入れるまでに多くの人を傷つけたものだ。その過去を清算するならば、私が行くべき道は地獄のそれである。

だからこそ、これを甘美だと形容するのは、ひょっとするとひどく不謹慎なことなのかもしれない。それでもやはり私の幸福は、甘美な地獄の形をしている。私はその地獄と末永く粛々と付き合っていくつもりでいる。

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