アイデンティティについて

中高校生だったころ、自分には一切の長所もなければ嗜好もないと感じて悶々と悩んだことがある。進路選択を意識し始めたころだ。
あの頃は、やりたいことを仕事にする人が、いちばん「正しく生きている」のだと思っていた。裏を返せば、自分の意志薄弱さを気に病んでいたとも言える。「正しく」生きてみたくて、しかし何が「正しい」のかわからず延々と悩んでいた。「正しい」と信じられる何かがあれば、強く溌溂と生きられる気がしていた。そして、その「正しい」何かこそが、自分の基盤、自分のアイデンティティになるのだろうと、漠然と夢想していた。

結論から言えば、未だに「正しく生きる」ということがどういうことなのか私にはよくわからない。だが、「正しさ」をよくわからないと感じることこそが私のアイデンティティなのだと今は腑に落ちている。そして、このアイデンティティは、確かに私の揺るぎない基盤として機能している。

この感覚をより一般的に説明するならば、私にとって人のアイデンティティとは「選択」なのだと思う。もちろんそこには「何かを吟味し、その正しさを判断する感性」も関与する。若いころ、私はその「感性による決断の正しさ」あるいは「決断の迷いのなさ」自体に固執していたが、今となってはむしろより中立的に、「感性による決断」すなわち「選択」のプロセスのすべてがその人のアイデンティティを表すのだと思う。正しさはそれほどアイデンティティにおいて重要ではない気がする。

たとえば、ある課題に対し迷いの只中に居たとて、それはその人のアイデンティティが無いということにはならないと思うのだ。ただ「その課題について迷いを感ずるというアイデンティティ」がその人にあるのだと思う。そして、そうした迷いに溺れるでもなく、「こういうとき本当に迷うんだよな」と自分を否定も肯定もせずただ俯瞰する感覚が、自分のアイデンティティを自覚するということである、強いて言えば。私にとっては。
アイデンティティを自覚すると、自分が迷いを抱いているという現象に動揺しなくなる。決して迷わなくはならない。むしろ歳を重ねるごとに、あらゆることに対し迷いは深まる。何か、自分がしっかり悩みたいと思えるものに出会ったときに、腰を据えて迷うための基盤として、アイデンティティは重要なのだろうと思う。

自分が何者か、どうありたいのかどうあるべきか、一切わからぬまま選択の期限に直面し悩み動揺する人。焦らず悩めばいい。きっとそれこそがあなたの悩むべきことであり、アイデンティティなのだと思う。いつかその悩みのプロセスから動揺や焦りの靄が晴れたとき、間違いなく初めからあなたはあなたであったと気づくときが来る。

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