自分は誰なのか

冗談のような話だが、私はよく自分が誰なのかわからなくなる。名前や記憶を失うわけではない。ただ、ひとりの人間として一連の人生を歩んできたという実感が、とても乏しくなる瞬間があるのだ。

それは、何かに忙殺されたあと、ふいに余暇ができたときだったり、とても傷つく出来事から少し時間がたって冷静になりかけたときだったりする。あるいは何か楽しいことが終わったあとだったりもする。どこか冷えた思考回路の端で、「何故、こんなことしてたんだっけ」と思う。物心ついた頃からそうだった。というより、「自分」という概念を知ってからずっとそうだ。

中学生の頃だったか、辞書でたまたま「離人症」という言葉を知った。曰く、自分の存在にまつわる実感が希薄になりどこか無感情になるのだと。自分もそうなのかな、と思ったが、私の場合は喜怒哀楽がないでもなく、厳密には少し違うようにも思った。

やがてノイローゼを経て、どうにか大人になり、社会で他愛ない人間関係を得るようになってから、自分にはそれなりの逆境体験があったのだということをじわじわと認識した。思春期から青年期にかけて、自責を主体とする反芻思考や、軽いフラッシュバックがあったのだということを、その症状から解放されて初めて理解した。
苦しさや絶望を努めて思い出さないようにすることができるようになってから、水面下に眠るトラウマの種の気配は感じつつも表面的には平穏な日常を送っている。それでもなお、ふいに思い出すのだ。「自分は誰なのか」という疑問を。

私はすでに、人は自分は誰なのかなど理解できなくとも漫然と生きていけるのだということを実体験を通じて理解してしまっている。苦しいときにはそこに生きる意味を問うたりしたが、結論は出ないままに苦しみからはそれなりに解放された。ささやかながら楽しいこともある。嫌なことがあれば悪態をつきながら、あるいは諦念を抱きながらやり過ごす。人と談笑し、ときに論証を戦わせ、世の中にはいろいろな人がいるものだと自分の界面を認識する。そのようにして普通に生きているのだ。そして息をするように、日常の端々で思う。そのようにして生きている、そんな自分は誰なのか。私の日常の中には、この疑問が根付いてしまっている。

一時期、考えないようにしようかと思うこともあったが、自然とわいてくる疑問を抑えるのは無理だった。抑え込み忘れようとするとかえってそわそわと不安定になる。かといって、談笑の種にするような話でもなさそうではないか。私は世間話の中で「自分って誰なんですかね。気になってこないだ少し考えてみたんですけどね――」などというくだりを聞いたことはない。たぶん一般的な話題ではないのだ。私にとっては旨い飯屋を探すこと以上に日常的な疑問だが。旨い飯屋の情報は人に気軽に問えるのに、なぜ自分が誰なのかを談笑するのはこうも憚られるのか……とてもストレスがたまる。

共有できないストレスを除けば、もはやそこに生きる意味を問うほどの切実さもないので形骸化した疑問かもしれない。とはいえ、私は自分が誰なのかわからない。それは事実だ。これは狂気だろうか。狂気だとすれば、私は人知れず水面下で静かに狂っているともいえる。たとえばこれに「離人感」とでも名前を付けて乱雑に分類したとして、それがなんだというのだろう。

そんなふうにモヤモヤと思考を巡らせながら、ふと考えるのだ。自分が誰なのかと、そう疑念を抱くということは、私は自分が誰なのかを「知りたい」のだろうか、と。自分が誰なのか「知る」とは、どういうことなのか。生物学的なルーツの追究、あるいは個人的記憶の反芻。自己が他者にどのように呼称され、認識されてきたか。――そのいずれも、私が知りたいことではないように思う。

しいていえば、私は何か「納得」したいのかもしれない。別に、自分にまつわる必然性や因果関係を論証して自分を定義したいとかではなくて。もっと根源的な情動の話として。とすると、やはり私は単純にいろいろなことに対する実感が薄いのだろうか。けれど、自分を実感できた時点で「本当の自分」がようやく現象として生じるなら、じゃあ実感が薄い今の私は「本当の私」とはいえない――というわけでもなかろう。それは何か違うと思うのだ。……もう考えるのが面倒くさい。無理だ。私に哲学は向かない。こんなことばかり考えるから哲学者は気が滅入るんじゃないか。なるほど、だからあえてこんな話題を他者と談笑まではしないのか。

私は、ある程度の時間をかけて、平穏な日常の水面下でトラウマの種を飼うことに納得してきた。だからおそらく、またある程度の時間をかけて、自分が誰であるのかわからず、またそれをしいて誰に問うでもなく生きていくことに納得していくのだろうと思う。

自分で自分を知ることが終ぞなくとも、きっとそれが私なのだ。

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