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最終頁

ぱたん。
と、世界は閉じた。

世界が一冊の本だということを、世界中の誰も知らなかった。
最後まで読まれた本は閉じられ、世界は消滅するということも。
最後の1ページが昨日であったことも。

(ぱたん)

忘れられて本に挟まれたままの僕は、誰にも発掘されず朽ちていく。カサカサ、ぺしゃんこの押し花みたいに?

僕は深夜の電話に起こされ、目をこすりながら玄関へ出たところだった。受話器を取り上げて相手の声を聞くより先に、世界が消えていた。
とつぜん激しい目眩に襲われ、立っているのか吊されているのかわからなくなった。スイッチを切ったかのように暗闇が降ってきた。すぐ目の前にあったはずの壁を探ろうとして、右腕の肘から下が失われていることに気付いた。痛みはなかった。違和感も。驚きすら感じなかった。腕と一緒に感情も削りとられたのか、二階に寝ていたはずの両親を思っても心は騒がなかった。

(ぱたん)

「これは夢だ」と唱えることには飽きてしまった。夢である確率はまだゼロではない。だがそれにしては、あまりに目覚めが遅すぎる。もう待ちくたびれた。

(ぱたん)

夢でないのなら夢にしてしまおうと、何度も眠ろうとした。凍りつき砕けるのか、分解されるのか、僕には知りようもないが、無に還らなくちゃならないのなら、その時は眠らせておいてほしい。頼れる神様も滅んでいるなら、祈っても無駄か。
じゃあ、祈らない。
それでも祈りたい。
祈る。
祈った。
祈れ。
祈ろう。どうせ他に考えたいこともない。

*

眠れないでいるのは、受話器のせいだ。
眠るのはいい。だが、もしふたたび目覚めてしまったら、目覚めてこの手が空っぽだったらと想像すると、わずかに残る恐怖心から指を動かすことができない。コードの千切れたプラスチックの塊は、あの世界が存在したことの証しだ。掌のこの感触だけが、僕と世界との繋がりなのだから。

最後の電話をかけてきたのは、誰だったのだろう。
あるはずの左手を持ち上げ、受話器を耳に当ててみる。正確には耳があったと思しき場所に。プラスチックの感触。温度。感覚と記憶は同じものなのだ。
闇と静寂に押し潰されてしまうまでに、これまでにこの耳が触れた音を思い起こそうとした。世界はなんと多くの感覚に溢れていたのだったか。欠けた手足の感覚。呼吸のリズム。かつての身体の記憶を蘇らそうとした。
そして世界の名残りの音が、スピーカーから流れてきた。

びくん、と電流が走る。虫の羽音ほどのかすかな音に、体が反応した。心臓が跳ねて血が体内を巡る。肉体はまだここにある。理由はわからないが、僕はまだ生きていた。
風?
僕はスピーカーに耳を押しつけた。おそらく自分の呼吸を風音と間違えただけだろう。貝殻に波の音を聞くように。

ひゅう。
ふう。
ひゅう。

受話器を持つ手が震え、落とさないように力をこめる。
「だれ」
そう言ったつもりが、音にはならなかった。息がもれただけだ。
左耳でじっとスピーカーの向こうをうかがう。風のささやきが誰かの返事でないとは言えない。僕よ同じように声にならないだけかもしれない。ここに繋がるどこかから。
もしかすると。
ふいに間違いを悟った。ほかにあったはずだ。呼びかける言葉が。世界が終わる間際に言おうとした言葉が。

もしもし。

その言葉を発した瞬間、記憶の大波が一気に押し寄せた。
「もしもし」
電話。機械。声。人の声。鳥の声。木。空。太陽。地面。におい。水。空気。町。
僕ひとりでは支えきれない大量の記憶が、左耳からなだれ込む。殴りつけられる痛みを身体が思い出す。情報に飽和して全身が膨らみ、溢れ出すのを拒んで骨がきしむ。僕は恐怖に溺れそうになり、自分の言葉にすがりつく。

もしもし。もしもし。

呼びかけに応える声のないまま、世界の記憶をすべて吐き出して、やがてそれは沈黙した。
僕は掴んでいた指を一本ずつゆっくりと引き剥がす。役目を終えて死んだ受話器は、左手の上で分解されて粉々になり、やがてその感触も消えた。
そして、僕は一冊の本になった。

*

僕は一冊の本となった。
いま僕の中にあるのは、記憶の束に上書きされた新しい物語だ。内容は僕自身もまだ知らない、まっさらの物語。
誰かの手がこの本が開くとき、世界を著すすべてを僕が語ることになるだろう。最後のページにたどり着く日まで。
そのときまで、僕はじっと待ち続ける。
永遠はもう怖くない。



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