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岐路

(この小説は8月に投稿した『地図』の続きになります。前作に目を通していただいてからお読みいただけると嬉しいです。)


 ぽたん、

 ひたいを打った雨粒は、いつもより大きかった。
 空を見上げると、暗く厚い雲がうねっていて、わたしは慌てて家に入った。ドアが閉まった途端、ざざざと滝のような音に囲まれた。この町で初めての大雨。窓を、屋根を、雨が叩きつける。夜、屋根裏で横になっていても雨音は激しくなるばかりで、屋根を突き破るのではないかと怖くなったわたしは、キッチンで布団にくるまり窓に雨がつたうのを見ていた。水道や食器を見ているとなぜか少し安心できるのだった。この町で不安を覚えたのは初めてのことで、そしてこれが最初の異変だった。

 雨はひと晩中降り続け、夜が明けると、空はいつもの穏やかさを取り戻していた。イングリッシュ・ガーデンを模した庭はひどい有り様だった。窓は汚れて、黄色い壁にも染みができている。わたしは困惑した。この家がわたしの意思でできている限り、乱されることはないと思い込んでいた。部屋に戻って、町の地図を広げてみる。わたしの家のあたりだけが、水で滲んだようにかすれていた。
 天気が元通りになれば庭もしぜんと蘇るのではと期待していたのだが、窓の汚れも花壇の荒れも、何日たってもそのままだった。わたしは仕方なくシャベルと雑巾を持って修復にかかった。幸い、わたしの手が支えただけでも花は体を持ち上げたし、息を吹きかけただけで窓の汚れはするりと落ちた。庭が息を吹き返したのでわたしはほっとしてぬれ縁に腰を下ろした。すると、こつんとかかとに当たるものがあった。拾い上げてみると、木でできた、おもちゃの汽車だった。傷だらけで、古い物なのかところどころ塗料がはげている。
 どうしてこんなものが?
 わたしの町に存在するものはわたしが必要としたものばかりだ。おもちゃの汽車など持ち込んだ覚えはなかった。しばらく考えたけれど何も思い出せなかったので、わたしは見なかったことにしようと、汽車を縁の下に放り投げた。

 だが、見なかったことにして忘れることはできなかった。
 ある日ふと、庭に咲く花が以前よりも減ったような気がして、花壇に入って調べてみると、明らかに荒らされていた。花が何本も引き抜かれ、ちぎられた花びらが穴だらけの地面に散らばっていた。
 ぶるっと体が震えた。わたしでない誰かが、この町にいる。おもちゃの汽車も、おそらくその誰かのものなのだ。ありえない事態に混乱したわたしは、ふらふらと花壇から出ようとして縁石につまづいた。その時、足跡を見つけた。わたしが履くサンダルよりもひと回り大きな靴跡が、土の上に残っていた。
 わたしは家に飛び込むと戸締まりをした。ドアと窓には、さっきまではなかったはずの鍵がついていた。全部の窓をしめ、カーテンを引いたところで、家の中に誰かが潜んでいたらという考えに襲われて、足音をたてないように家じゅうを見て回る。わたししかいないことを確認すると、やっとほっとして部屋の柱にもたれかかった。そのままうとうとしてしまったらしく、気がつくと夜中になっていた。屋根裏部屋で寝ようと立ち上がると、窓の外から何かが聞こえる。風の音か鳥の声か。足を止めて耳をすますと、それは歌だった。歌詞はよく聞こえない。旋律もはっきりしない。けれどわたしの好む曲ではなかった。わたしが持ち込んだ歌ではないのだ。わたし以外の誰かが近くにいて、わたしのではない歌を聞かせようとしているのだ。わたしは屋根裏に駆け上がり、布団を頭からかぶって耳をふさいだ。ただ怖くて、考えるのは明るくなってからにしようと、じっと朝を待った。

 朝は来なかった。
 時計もカレンダーもこの家にはないので正確な数字はわからないけれど、屋根裏に籠もって間違いなく数日は経っている。それなのに、窓の外は変わらず闇だった。歌はもう聞こえてこないし物音もしないけれど、明かりをつけて居場所を知らせるのが怖くて我慢していた。暗闇に籠もっているのは限界だった。わたしはこの家を出ることにした。

 地図だけを手に、窓から庭に下りた。鍵を開けた時に音がするのを怖れて、ドアは使わなかった。街灯などないから外はほぼ真っ暗だが、空には星が光っている。わたしが作ったのではない星にわずかに勇気づけられ、わたしは初めて庭から外に出た。
 地図には家の周辺をほとんど書きこんでいない。目の前にある石畳の道だけだ。わたしは迷わずその道を北へ向かった。南には港があるだけだし、その港に船があるかどうか自信がなかった。それにわたしは泳げない。海は行き止まりに思えた。反対に森の湖の近くには、動物たちを眺めるための隠れ家がある。行ってみたことはまだないが、地図に書いたからにはあるはずだ。
 森までの途中には建物も何もなく、一面の広っぱを横切るようなものだった。道から外れなければ、やがて森にたどり着くだろう。星明かりを頼りに、時々立ち止まっては誰もいないか気配をうかがう。耳をすましても何も聞こえない。だが、これまでだって気配があったわけではないのだった。不安に背中を押されてどうしても急ぎ足になる。
 やがて、分かれ道に出た。
 わたしは暗闇のなか、石畳に触れて道を確かめた。どちらが森だっただろう? 星明りの下で地図に目を凝らす。目印に街灯のひとつふたつくらい書き足しておけばよかった。たしか、右が森と湖に続く道だったはずだ。では左は……。自分の書いた道筋を追うと、道に交差して太い線が伸び、その先には細長い四角と、電車の絵が書いてあった。
 そうだ、駅だ。わたしは思い出した。地図の端まで伸びている太い線は線路だ。もうひとつ選択肢があったのだ。森へ行くつもりだったが、いつまでも夜が明けないのなら、闇の中ずっと森で隠れていることになる。夜のけものたちは、わたしに危害を加えないだろうか? 昼間であれば安全だと思えたことが、長過ぎる夜を過ごしたあとでは確信が持てなかった。
 駅に行こう、とわたしは決めた。地図に書いてあるのだから、ホームには電車が停まっているはずだ。行き先は決まっていないけれど、とにかく電車はわたしを待っている。
 駅へと続くはずの道を行くうちに、いつの間にか闇が薄らいでいるのを感じた。石畳を歩くわたしの足が見える。行く手がほんのりと明るい。道の脇に添え物のように生えていた草木が、光を浴びて背筋を伸ばしていく。光は石畳を近づいてきた。朝が来るのだ。闇に慣れていたわたしは眩しさに目をとじて、


 まぶたを開けると、病室だった。


 空いた窓からは日光が差し込んで、暖かい風がわたしの頬を撫でた。カーテンを握った手が視界に入り、その腕から肩へとたどっていくと、驚きで歪んだ顔があった。この顔は知っている。わたしの弟だ。わたしは、わたしの町から抜け出したのだ。

 わたしの体は以前よりずいぶんと回復していた。食事をとることができるまでになったが、空腹感や、痛みやだるさの感覚を思い出したのは嬉しくなかった。これまでいた静かな町に比べて、病院は人間が多すぎて騒がしくて、わたしはひどく疲れやすかった。そんなわたしに、弟はあまり話しかけることもせず休ませてくれた。ただ退屈なのだろう。時々、わたしの知らない歌を鼻歌で歌っていたりする。だいたいがアニメソングだ。わたしがうるさがると、苦笑いしてすぐにやめてくれる。

 町の地図は失われていた。
 看護師や弟に尋ねてみてもわからなかった。
「お姉ちゃんの部屋を探したけど、それらしい紙はなかった」と弟は言った。
 だからせめて記憶のはっきりしているうちに、町の地図を新しい紙に書き残しておこうと思った。黄色い家の見取り図も。けれどうまくいかなかった。何度書いても、正しい位置や正しい距離がつかめないのだ。考えてみれば無理もない。定規も使わず適当に思うままに書いた地図なのだから。
 同じ地図はつくれない。わたしは鉛筆を握りしめて泣いた。わたしが住んでいたあの町は、もはや二次元に収められる存在ではないのだった。


 それでも、あの町のことは忘れない。
 こうして言葉を紡ぐことで、わたしは地図の余白を埋めていく。森も湖も駅も港も、いつかのわたしが住み続けるわたしの黄色い家も、何年何十年かかるとしても、わたしの中に書き上げる。わたし自身が地図になる。たとえ戻ることが叶わなくても。
 恋しいわたしの家。わたしひとりだけの世界。

 






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