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悪魔宿しの子供

親戚の結婚式に呼ばれた子供のころ、自分の中には悪魔がいることに気づいた。

もちろん、角が生えているとか、なにか魔的存在を召喚したとかではない。ある現象を「悪魔がずっと僕に言ってくるんだ」と語っていたのだ。

その現象は、「その時に自分が何を感じても、その反対の気持ちが常に後からやってくる」という性質のものだ。

同じくお呼ばれした親戚の子供たちとゲームをして遊んでいた時、ふと、「ああ、彼らといると楽しい」と漠とした感情に注意がいく。
その瞬間、『いや、彼らは何も面白くない』という別の"声"が、他でもない自分から聞こえてきたのに驚いた。

その後はもう、おかしかった。ほんとうに怖かった。なぜか怖かった。

疲れてお風呂に入る。
ああ気持ち良い…。ーどうして?本当に?おはようとかおやすみみたいに言うことが決まってるからそう言っているんだろう?

ああ、明日ついに結婚式かぁ。
楽しみだなぁ。ー嘘だ。実は顔もよく知らない人の結婚式の何が面白いんだ。

こんな具合に、何か思うたびに反射するみたいに「言うべきでない」こと、いや、その時の気持ちに寄り添った言い方にすれば「思うべきでないこと」ばかりが溢れてくる。

たぶん俺は、自分が何を感じ、思おうと他人にそれが知られていないことの不思議、かつ、何でも思うことが出来てしまう不思議、そして感じたり思う、他でもないこの自分自身の自由な心を全く制御できないことに驚き、恐れたのだ。
だから「悪魔の声に自分がそそのかされている」と恐怖の存在を主語に、自らを目的語に置く表現を採ったのである。
この不思議な「自由」が、「自」分に「由」来するものではないことに抑え難い恐怖と罪悪感を抱き、「自分の気持ち」といえるものが何もないはずの世界で、「自分の心」を騙る、この俺自身を含む全ての人が、信じられなくなった。

この最悪の「世界不信」をどうにかするためには、俺のこの悪魔に乗っ取られた心の内をすべて父と母に話せばいいのではないか、と幼いながら考えた。

最初のうちは、「大丈夫だよ」とか「言わなきゃいいんだよそんなのは」と慰めてくれた。

でも俺は救われなかった。
「ありがとうママ、パパ。もう大丈夫だよね。あ、今、『うるさい』って言った。『死ね』って、言った、思いたくないのに…『本心だ』違う、『違わないだろ』」
…こんな具合だ。言葉にして、父と母にシェアして貰えば、悪魔は祓われはずだと思った。でもこの言葉自体について回るからキリがなかった。何かを考える限り、この悪魔とのチェイスが終わらないことに、気付いてしまった。

どうすれば考えないでいられるのかと、考えながらその日は眠った。


で、いつのまにか、俺はこのチェイスをしていること自体忘れていた。世界不信なのに。大々的なのに。

それはなぜなのだろうか。
今更考えるに、悪魔の悪性を飲み込んで肉にし、魔性を完全に他人事として考えることが成熟だから、である。

つまり、「思ってはならないことや感じてはならないことがあろうがなかろうが、そんなことは俺自身には左右できないのだから仕方ない」と諦めることが成熟であり、大人なのだ。もちろん、立派な意味での大人ではないだろうけれども。
なぜなら、大人はこんな居直りを表明しないところまで含めて大人だからである。バレない嘘をつくのが、大人だ。

子供はよく哲学者だと言われるがその理由は、あまりにもミクロな問題に世界のすべてを詰め込んでしまい苦悩するミニチュア主義が、大雑把で壮大な観念の繋がりに苦い顔をしながら惚れ惚れする彼らの振る舞いと似ているからだろう。そう思う。




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