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片道切符

朝の家畜小屋みたいな凝集率の電車に乗ってると、いくつか気にすることがある。
まずは身の回りに妙齢の女性がいるかどうか。
ついで自分の手を肩より上にどうにか持っていけるかどうかだ。
ケツ触ったやらなんやら言われるかもしれないし。困るだろう。

こんな限界状況だと、目の前に座る、同じく通勤中であろう人が羨ましく映る。
俺、妊娠しないかなぁ、やさしい人なら譲るだろうなぁ、なんてことを考えつつ満員電車の酸素の薄さから気を逸らす。いや、酸素が薄いからこんなこと考えてんのかな、とりあえずラマーズ法で確保しないとな酸素を -という主旨のことを朝から経験する。して、おもむろに思案する。

もし、席が無限の電車があればやさしい人の"やさしさ"は失われるな。
とすると、目の前にジジイババアがこれ見よがしにやってきた時の、正当化できない怒りと席を譲らない"やさしくなさ"を身に受ける気持ち悪さだって無くなるんじゃないか。

座席が限られていることによって、優しさが生まれる。優しさとはだから、価値なのだ。ステータスなのだ。

この時、優しくありたいと思う人と優しくありたくないと思う人が出てくるのではないか。

まず優しくありたいと思う人は、
優しさを通貨として考えている。
優しくある人には名誉というものが着せられ尊敬され、その名誉によってその人は満たされ、巡り巡ってお金やら異性やらも得られる。善因善果、悪因悪果というやつだ。まあつまりハッピーエンドが好きな人だ。

優しくありたくないと思う人はどうか。
この考えを採る人は、優しくありたい人よりも一段捻って考えているので少し複雑だ。
さてその複雑さを平たくして考えてみると、優しくありたくない人は、次のように感じているのではないか。

①優しさというのはあくまでも通貨=手段でしかない。
②でも本来の優しさは違うはずだし、違うべきだ。ただ優しくあるためだけに優しくあることこそ、本当の優しさだ。

そしてこのように言われるや否や

③いや、違う。②はあまりに素朴ではないか!なぜなら、②の本当の優しさなんてのは、まさに「通貨の優しさ」である①が使われる時のリップサービス、あるいは"チップ"サービス(追加の優しさ)でしかないのだから!

と思うに違いない。
だいたいは、「あなたは①と②のように考えていますよね?」と追及されたら「いや③だ!」と言うが、そう追及されない場合は①と②のセットで考えているので、優しくありたい人を見下すのだ。

しかし自分もまた、優しさを通貨として考えていること、そして通貨でない本当の優しささえ通貨の一つでしかないと感じていることに、恥じらいがあるのだ。

そうこうするうちにこの電車は目的の駅に着いた。

「みんなが目的の駅に着いて電車を降りることができたなら、席のことなんて考えなくていいんだよな」なんて独り言が口から出てしまう。

たぶん、その駅名は「浄土」ってやつかな。いや「神の国」かな。どっちだろうな。

もう夏になるってのに、寒いみたいに手と手を合わせたくなるね。なむあみアーメン。

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