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適当な感想文『仏教聖典』


以前、ブック・タフにて仏教聖典を購入したことをTwitterに載せました。

今回はその仏教聖典を読んだ感想でも書いてまいります。

タイトルの通り本当に適当な感想文を書くので、こんなものあまり当てにせず、そもそも読みたい人は下記サイトより無料でダウンロードできるので自分で読んでください。

無料ダウンロードできるPDF版の方が縦書きで読みやすいと思います。その辺は人それぞれかもしれんけど。

なお、『仏教聖典』というのはインドにそのような聖典があるわけでなく、色んな御経から抜粋して編纂し、1960年代に出版されたとあとがきにありました。

感想

それでは本当に適当な感想は以下の通り。

  1. シャンカラやラマナ・マハルシが言及しているものと似てる。

  2. たとえ話が多い。

  3. これ本当に実践し厳守している坊さんいるの?

というもので、それぞれ以下の通り。

1.不二一元論と仏教

どちらもインド産だから似てるのは当然なのでしょうが、シャンカラ的には仏教と一緒にしてくれるな、という感じのよう。

また、この一切を寂滅に帰することは、なんの努力をしなくても達成されるのであるから、(※仏教みたいに)それを達成するための手段を教えることは無意味である。この一切は各瞬間ごとに寂滅に帰するのであるから、それらが寂滅に帰するには、他の何ものをも必要としない。

『ウパデーシャ・サーハスリー』韻文編16章27

他にも理論的な批判が色々書いてあるのですが、注釈によると「説一切有部」「経量部」に代表される部派仏教が批判対象だったとのこと。

私としては理論なんて二の次で、実践方法がシンプルかどうか、そして本当に効果あるかどうかが重要なのですが、本書の「実践の道」の章とかを読んでいるとあまりにゴチャゴチャ書かれており、「ククク...ひどい言われようだな まぁ事実だからしょうがないけど」と思えてきますヮ。

でも本書にはグチャグチャ書いてあるけど、結局のところは

前に説いたように、眼を開けば、どこにでも教えはある。同様に、さとりへの機縁も、どこにでも現れている。

『仏教聖典』実践の道 第2説

まことにさとりの縁には限りがない。

『仏教聖典』実践の道 第2説ラスト

というのが実情でしょう。

誰でも悟れる「悟りのマニュアル」なんてものがあるわけじゃないし、ましてやこの『仏教聖典』を読んで暗記したら悟れるというものでもないし。

2.たとえ話が多い

特に「さとりへの道」の章から「人のつとめ」の章にかけて、たとえ話が大量に載っております。特に「真理のためなら命も厭わん」という話が多い気がします。

「さとりへの道」11節の福の神と貧乏神の話なんて、なんかコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの話を思い出しました。(でも昔の日本の基準の美人なんて当てにならんから、今だとコノハナサクヤヒメがブスでイワナガヒメが美人になったりして)

そのたとえ話の中にキサーゴータミーの話もあったのですが、私は常々この話の取り上げられ方に違和感を持っております。

あるところにキサーゴータミーという女がいた。

彼女の幼い子供が死に、彼女は錯乱状態となった。

ゴータマが彼女に「一度も死者の出てない家からケシの実をもらってくれば、私がその子を治してやろう」と言った。

彼女はケシの実を探したが、死人の出ていない家などなかった。

彼女はさとり、ゴータマの弟子となった。

『仏教聖典』煩悩の章3節

話の内容はこんな感じで、なんか猫も杓子も「これはな誰でもそうなるんや」という話ですと書いているけど、ちょっとズレてれるかなというのが私の感想。

最初にこの話を知ったのが確かひろさちや氏の本だったのもあるかもしれないけど、この話って氏が書いていた通り、
「死んだ子供だから駄目、生きている子供でないと愛せない」のようなカン違いをするな、そんな無明に基づく執着に気付け、生きていようが死んでいようがあなたの子供は愛すべき子供ではないか、という話なんじゃないのこれ。

※ここでいう「愛」とは仏教的執着のことではなくキリスト教でいうアガペー的なもの。

大体「実践への道」の章にも

わが身は汚れたもので執着すべきものではないと見る。

『仏教聖典』実践の道 四念住

これはわが子、これはわが財宝と考えて、愚かな者は苦しむ。おのれさえ、おのれのものでもないのに、どうして子と財宝とがおのれのものであろうか。

『仏教聖典』実践の道

なんて書いてあるし、「生死や獲得喪失に囚われるな」というのは仏教聖典を通じて述べられているテーマの一つじゃないですか。

というわけで、私はひろ氏の解釈に同意するし、この話の一般論に対しては「問題文で言及されていない内容を解答用紙に書くと現代文のテスト0点なの知ってたかマヌケ」とでも言いたくなりますわな。

まぁ、本書には「私こそが正しい」なんてものも捨てろという話が「人のつとめ」の章5節に嫁姑のたとえ話で出てくるのですが…

3.これ実践して守っている坊さんいるの?

こんなこと言ったらキリスト教なんて聖書の内容を全然守ってなさそうなんだけど、日本の坊さんの中で本書の内容を実践し守っている人なんているのでしょうか?

私の持っている本には「龍谷大学」とデカデカと記載されていますが、昔も今も西本願寺の坊さんが守っているようにはみえないけど、いいんスかこれ…

「本書の内容を守らないと地獄行き」ということはないでしょうが、坊さんも無明と煩悩にまみれて死ぬまで苦しみ続けることになるんじゃないの?という余計なお世話なことを思ってしまいます。

まぁ先述の通り、本書の内容守ったからって無明に気付けるとは限らないし、さとりへの道なんて千差万別だからいいのでしょうが、それならもう少し内容を削ってシンプルにした方がいいんじゃないの、シンプルにしたら龍谷大学の学生も本書をブック・タフに売るようなことしなかったんじゃないの、などとこれまた余計なお世話なことを思ってしまいました。

そういえば関係ないけど、『力王』に出てくる六芒星とハーケンクロイツが合体する有名なシーン、5巻あたりで力王と弟の那智(!)が組み合った時のシーンだということを最近知りました、などと本当に関係のない話をしつつ、今回はここまで。