【2020年 東大世界史 解答速報&解答の指針】

答案例(後半に「解答の指針」をのせてあります)

第1問
答案例1(私、法念の答案例)

中国王朝は、周辺国を朝貢と冊封により結びつける冊封体制をとり、朝貢貿易が媒介する交易圏の緩やかな統合たる中華世界を現出してきた。明清は対外関係を朝貢・冊封関係に原則限定し、鄭和の遠征で中華世界を拡大した。この中華秩序は、理念さえ守れば他の論理の共存を許した。琉球は薩摩と中国に属し、その両属性ゆえに明代以来の交易圏の発展を支えた(史料C)。ベトナムは、中国に朝貢しつつ東南アジアに対し皇帝を自称してきた。朝鮮は、清に服属するも、自らを正当な中華文明の継承者とする小中華の思想をもった(史料A)。交易圏に参入した西洋も、この秩序のもと朝貢貿易の延長として交易してきた。しかし18世紀末以降は条約に基づく対等な国際関係と自由貿易をせまり、アヘン戦争と南京条約で変容をみる。これは理念上中華秩序を揺るがさなかったが、現実には清に自由貿易を強制し、列強の中華世界進出を加速させて、清が朝貢国を失う契機となった。ベトナムは、フランスが植民地化を進めてもなお清に朝貢した(史料B)が、フランスはフエ条約でベトナムを保護領とし、清仏戦争の帰結たる天津条約で清はその宗主権を失った。西洋の論理を受容した日本は、琉球を併合した他、中華世界から朝鮮を離脱させて朝鮮進出を図った。これにより日清戦争が勃発、清は敗れ、下関条約で最後の朝貢国朝鮮の宗主権を失った。かくて名実共に中華世界は崩壊、中国は主権国家体制に組み込まれた。

答案例2(他メンバーの答案例)

東アジアの国際関係は元来、民間交易に加え、中華王朝の華夷思想を基盤とした冊封朝貢体制によって説明されるものであったが、15世紀の明代で関係は後者に厳しく限定された。朝貢国の琉球が明の物産を求める国々と明との中継貿易拠点として繁栄したのはその象徴である(史料C)。王朝が清になり、海禁が解かれると、西洋が次第に海域東アジア交易に本格的に参入し始め、互市貿易が主流となりはするが、薩摩などを窓口とする日本中心の外交秩序と共存する形で冊封朝貢体制は維持された。一方で、夷狄性を内在する清に対して自国こそが中華王朝であるとする小中華思想がベトナムや朝鮮(史料A)で育つなど、再編された面があったのも事実である。19世紀以降、さらなる自由貿易を求める西洋のもとで条約に基づく主権国家体制が広がり、冊封朝貢体制から距離のあった日本は西洋との条約的関係の不平等性を意識して例外的にいち早くその体制に移行したが、清朝にはその不平等性が意識されず、史料Bのように冊封朝貢体制はなお存続した。しかし、清仏戦争の敗北や下関条約などを機にベトナム、朝鮮などが冊封朝貢国から離れ、その数が減少した結果、この体制は崩壊し、19世紀末には主権国家体制に完全に覆われた。こうして中華王朝を核とした伝統的な国際秩序は西洋と日本によって塗り替えられたわけだが、このような歴史が覇権国家を目指す現代中国の原動力へとつながっていくのである。

第2問

(1)
(a) 匈奴は冒頓単于の下で、前漢を破って貢納を課し、烏孫、タリム盆地を支配下において東西交易の利益のもと遊牧帝国を築いた。
(b) チベットとモンゴルは革命を機に独立を宣言し、それぞれ英、露を頼ったが、英露が中国との関係を配慮し、中国の宗主権の下で自治を行うとされた。外モンゴルはのちにソ連の影響で独立した。
(2)
(a) エジプトでスエズ運河が造られた。その経費のために財政が破綻したエジプトは、スエズ運河の株をイギリスに売却、イギリスの経済的支配下におかれた。内政干渉に対しウラービー革命が起こるもイギリスはこれを鎮圧、エジプトを事実上の保護国とした。
(b) 流刑植民地として白人が植民していたが、金鉱の発見で移民が急増すると、白豪主義のもと非白人移民を制限するようになった。
(3)
(a) 保守主義が広まるワスプ間で、他の白人や黒人、アジア系移民を差別する風潮が高まり、移民法で南・東欧系移民を制限、日系移民をほぼ禁止した。また白人至上主義団体KKKも勢力を伸ばした。
(b) 合衆国は、メキシコ領だったテキサスを併合して挑発、米墨戦争となり、勝利してヒスパニックの多いカリフォルニアを獲得した。

第3問
(1)ソロン
(2)墨家
(3)コルドバ
(4)ガザーリー
(5)全真教
(6)トンブクトゥ
(7)考証学
(8)バーブ教
(9)マルサス
(10)フロイト

解答の指針

第1問
 2019年第1問はイスラーム帝国の解体でしたが、2020年第1問は中華帝国の変容と解体でした。帝国と主権国家体制は東大が大好きなテーマです。史料番号を明記するのは新傾向といえなくはないですが、十分に対応は可能な範囲だといえるでしょう。

 本問の主要求は「15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について」記述すること。副次的要求が「朝鮮とベトナムの事例を中心に」であり、「具体的に」という付随要求もあります。また、リード文には「現実と理念の両面で変容」とあるので、現実と理念の両面での変容が答案に浮き出るように意識したいです。これをふまえて、おおまかなあらすじを考えていきましょう。

 まず、「東アジアの伝統的な国際関係のあり方」を説明する必要があるでしょう。東アジアでは伝統的に、周辺の国は皇帝の徳を慕って貢物を持って都を訪れる一方(朝貢)、皇帝はお返しを与えて国王に任命し、統治を任せる(冊封)という体制がとられてきました。冊封体制といいます。リード文にあるように、この理念さえ守れば、各国は自由な論理を展開し、国内支配をしたり対外関係を結んだりすることができました。それゆえ琉球のような両属も許されたのです。

 15世紀頃から19世紀末とありますから、明清の話をするわけです。明は対外関係を朝貢・冊封関係に限定し、貿易も朝貢貿易のみに限定しました。この「海禁」は14世紀後半に洪武帝が実施したものですが、明清の基本的性格となったので書いてよいでしょう。15世紀には、鄭和の南海遠征が行われ、各地に朝貢を求めました。これにより東アジアと東南アジアの交易ネットワークは活性化します。この交易ネットワークの緩やかな統合こそ中華世界といえます。ここに西欧が参入するわけです。

 西欧も18世紀末までは、この論理を受け入れて貿易を行っており、朝貢貿易の延長として認識されていました。しかし、18世紀末以降西欧は、主権国家体制に基づく対等な国際関係と自由貿易をせまるようになります。マカートニーやアマーストの使節団が思い出されるでしょう。事態はアヘン戦争で変わります。清の理念上は、南京条約や他の不平等条約は中華世界の論理で解釈されました。一方現実には、自由貿易体制が成立することになりました。そして列強が周辺国を次々と保護国化・植民地化するなかで、理念の上でも中華世界は機能しなくなり、最後の朝貢国朝鮮を失って、名実ともに中華世界は崩壊しました。

 ここで、指定語句と史料を確認します。「小中華」から朝鮮を連想し、中華世界の論理のもと、朝鮮やベトナムがどのように展開していたかを書くべきと判断します。 史料Aはここで使うべきでしょう。次に「朝貢」は、中華世界の論理の説明で使うべきでしょう。「条約」についてですが、「下関条約」も「条約」も指定語句にありますから、「条約」は「○○条約」の形ではなく、「条約」単独で使うべきでしょう。「臣下の礼をとる形で関係を取り結んだ」中華世界に対し、「ヨーロッパで形づくられた国際関係」では「条約」で関係が取り結ばれるのです。

 ベトナムと朝鮮がどのように中華世界から離脱したのかも書かなければいけません。「清仏条約」と「下関条約」はそこで使います。史料Bは、ベトナムがフランスの進出を受けてもなお朝貢を続けていたことを示します。フランスは力づくで、理念の上でもベトナムを中華世界から引きはがしたのでした。さて問題は琉球です。史料にも記述があり、指定語句にも「薩摩」があるのに、副次的要求は「朝鮮とベトナム」というように琉球を含めていません。この理由は正直まだ分かっていませんが、琉球を主題とした文章はそこまで求められていないと考えても大丈夫でしょう。史料Cは琉球が中継貿易で繁栄したことを示しています。また「薩摩」があることから、琉球の両属性は説明すべきでしょう。そこで、両属性ゆえに中継貿易がより盛り上がり、交易圏は活性化した、という文脈で使うこととしました。

 「現実と理念の両面」での変容を書けるかで差が出る問題と思います。また、西欧が当初は中華秩序のもと交易していたことも重要なポイントと考えました。「小中華」の思想の登場は変容なのかということですが、これはリード文にあるように中華秩序の説明で使うのでよいと思います。また、「15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と『近代における』その変容について(二重括弧は強調)」というように「15世紀頃から19世紀末までの時期」と「近代」を区別していますから、「変容」は主権国家体制と自由貿易体制に絞ってよいでしょう。

 繰り返しですが、本問の主要求はあくまで「~東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について」記述することです。この文脈にそって、「朝鮮とベトナムの事例」を具体的に述べることを心がけましょう。

第2問
(1)(a)は匈奴の状況を述べる問題です。匈奴は冒頓単于のもと最盛期を迎え、東胡や月氏、前漢をやぶり、遊牧帝国を現出しました。匈奴の状況を述べる問題ですから、漢との関係に字数を割くより、匈奴の状況に重きをおきたいです。中央ユーラシア世界と東アジア世界の交渉史はおさえておきたいところです。

(1)(b)チベットとモンゴルは革命を機に独立を宣言しました。しかし完全な独立は達成されませんでした。結局外モンゴルだけがモンゴル人民共和国として独立し、チベットと内モンゴルは緩やかに中華民国にとどまったのです。独立の動きを述べる問題なので、独立が達成されたのかされていないのかも書くべきと考え、人民共和国の成立まで触れておきました。

(2)(a)採点の都合を考え、まずテンプレートに沿った短文(「エジプトでスエズ運河が造られた」)を書きました。1996年第1問の指定語句には「アラービー=パシャ」が出てきます。また2001年第1問にはエジプト史が出ていますから、しっかりおさえておきたい問題です。

(2)(b)は書きたいことが多いため、何を書くべきかの判断が難しい問題です。流れとしては白人が入植した背景、その後移民が増えて白人が反発したこと、を主に書ければよいでしょう。移民が増えた背景はゴールドラッシュですね。「分かってますよアピール」で、「白豪主義」というキーワードをいれておきました。

(3)(a)も何を書くべきか難しい問題です。運動と政策ですから、ワスプが、非ワスプを差別し、KKKが運動したことは書くべきでしょう。政策は移民法を書けばよいでしょう。それらの背景として、保守思想が広まったことを書いたのは、なぜこの時期に「排斥運動が活発化した」のかを記した方がよいと考えたからです。黒人が南部から北部に移動したことは、あまりにも字数を使ううえ脱線がすぎるので、書きませんでした。サッコ・ヴァンゼッティ事件も、字数を使ううえ、この冤罪が「運動」や「政策」なのか怪しかったので書きませんでした。難しい問題です。

(3)(b)ですが、合衆国の領土拡大はたまに東大が出すテーマです。1956年第3問では、カリフォルニアが米墨戦争によって獲得されたことをドンピシャで聞く問題が出ています。「多様な住民を抱えることになった」背景が必要と考え、カリフォルニアにヒスパニックが多いことを書きました。

第3問

(1)はソロンです。「調停者」が大きなヒントになったのではないでしょうか。1980年第2問や1989年第3問では逆にソロンの改革の内容が聞かれています。
(2)はやや難しいですが、「人をその身分や血縁に関係なく任用しかつ愛する」とある点から、無差別な兼愛を説く墨家と考えるのが現実的でしょう。
(3)のコルドバは東大が好きな都市でしょう。1951年第2問、1959年第3問、1963年第3問などで問われており、1999年第1問では指定語句にもなっています。
(4)はガザーリーです。1998年第2問では逆にスーフィズム(神秘主義)を問う問題が出ています。
(5)は全真教です。開祖である王重陽と共に覚えておきましょう。
(6)のトンブクトゥは、1997年第3問でも問われています。
(7)の考証学は、1963年第1問や1986年第3問でも問われています。
(8)はバーブ教です。サファヴィー朝以降、イランにはシーア派が定着していました。
(9)はマルサス、『人口論』の著者です。
(10)のフロイトはユダヤ人であることも有名です。ナチスドイツのオーストリア併合でロンドンに亡命しました。

文責:法念

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