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日々と音楽


 ずっと昔に聴いていたCDを引っ張りだす。春の空気を煮詰めて美化と真逆の処理をしてもなお胸を透くような美しさがあった音楽に、敬意を込めて再生する、口ずさむ。同じ名前のミュージシャンでも、今はあんまり好きじゃない。偽善者みたいになっちゃってつまんない、なんて消費者みたいなことを思う。大きな音でイヤフォンに流す。体液を煮詰めたような声、という概念がここにあって、チェンソーマンの悪魔のひとつのデザインとして出てきてしまいそうなくらいエキセントリックでファンタスティックだった。内臓丸出しの天使みたいなところが好きで、この一曲の6分間くらいでもう二度と同じ形にはもどらないのではないかと案じるような限界の、美。まだまだ追いつくことのできない真実の表現があるな、と思う。一番美しい表現は枯れない泉では決して、ない。たった一度たまたま置かれたバケツの中に雨水が溜まって、たった一瞬光の差し込む角度や風の飛ばしたビニール傘、羽ばたく鳥や空気の乾き方なんかで完璧な真実を形作ったあの数秒のことが、芸術かもしれない。それは二度と戻らない瞬間。粉々に砕け散った君が一番きれいだったように、私は残酷にも他人に対して、ああ、つまんないの、どうして丸出しだった内臓をきれいに仕舞ってしまったの。と思ったりもするのだ。だけれどそういうことを思うたびに、私自身も誰かに内臓丸出しであることを望まれたこともあるのだということに気がついてしまう。なにをしてもぜんぜん痛くなかったときがあったんだよ、本当だよ。そんなことよりも臓器に直に当たるつめたい風が気持ち良くて、自分が生きていることさえも知らなくて、だから、うれしかった。「どうして内臓をきれいに仕舞おうとしているの。」と残念そうに聞かれても、そんなの、人は内臓丸出しのままだといつか死んでしまうからだよ。としか答えられないのに。天使には、天使をやめるか死んでしまうかの二択しかない。そのことがずっと馬鹿みたいで悲しい。私は内臓を乱暴に仕舞い込んでへたくそに縫い止め、そのことを忘れながら、たまにそのがたがたの縫い目のことを思い出して悔しくて泣くような何の取り柄もない大人になった。

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