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飴玉みたいな喜びを

 明日も明後日も変わらぬ日々が続いていくと思い込んで初めてやっと生きられるくらい、わたしたちは些細な機微に揺すられて存在しているのだから、そうでない季節には困ってしまうね。
 ある特定の単語や、それに関係の深い物事に対して人々の恐怖が一斉に向いてしまうとき、同じように言葉を使って同じように振舞っていたら、なんだか一気に酔っ払ってしまいそうな予感がして、少しだけ距離を置いてみる。
 衛生的に過ごすとか、できる限りの配慮をするとか、それは当たり前のこととして、それよりもっと奥の心の方は、ニュートラルに。それはどんな病気がはやろうと、どんな災害が起きようと、それよりも苦しいかもしれない身近な別れがやってこようと、何者にも侵されない領域を心の中に持っておく、ということはきっと、ずっとかけがえのない大切なこと。

 私の心の最も大切な部分が知りたいのは、きみが、おばあちゃんに移さないようにコンサートに行くのをやめたけれど、誰にも言えない奥の方で一部だけ、それでも音楽に触れることの方が大事だったかもしれないと思ってしまったことを、誰にも言えなかったこと。その寂しい輝きの話。
 卒業式がなくなって、好きな人と写真を撮るチャンスを逃してしまったこと。やりなおしのきかない、最初で最後のゆるされた時間が指先にふれることもなく取りあげられてしまったこと。その行き場のない淡い桃色。
 変わらない出勤時間、休憩時間に擦り込むアルコール、もっとも守られることのない世代が今まさに自分のいる世代なのだと気がついてしまったこと。だれも、身体の大きさとも、年齢のちょうどよさとも、性別とも、顔つきとも振る舞いとも、こなしている仕事の内容とも、心そのもの自体のつよさは、同じじゃない。壊れそうな、あるいはもう壊れてしまっているのに動こうとしている、不安と踊り続けるきみの両脚に、あわれみと愛を見つける瞬間を祈って。

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