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9/3。19歳_PURE.

「あみこ」という映画を見た。山中瑶子さんという監督さんの初めての映画で、彼女は現在21歳。わたしと同じ年だ。「あみこ」を撮影したのは19歳のとき。わたしがAVに出始めたのと同じ年だ。

あみこという変わり者の女の子が、アオミくんというニヒルな男の子に恋をする、そういう恋愛映画かと思ったら、物語にどんどんと振り落とされ、また振り落とされるごとに感じるのは理不尽さよりも「ああ、こういうの、有るよね…現実では。」という具合の、行き場のないごくごく普通の落胆だ。

あみことアオミくんは、一度だけずうっと、放課後を歩きながら話をする。それは、あみこにとって本当に特別なもので、そういう強烈な特別感というのが一方的にでも発生し得るものだということをあみこは多分知らなかったから、きっとこの魂の会話が、アオミくんにとっても同様に魂の会話であったのだと思い込んだのだろう。私たちは特別なふたりなんだ、私たちが結ばれるということがこの世界にとっても自然なことで、それは良い行いに違いないんだと、あみこは思っただろう。わたしは、こういう思い込みの最中にいる人の気持ちが、ものすごくわかる。思い返せば引いちゃうくらい、本当の愛の物語が自分に訪れるのだと信じている子供だったから。ピュアな自分がピュアを守り抜いて生き続けていれば、神様みたいななにか大きな優しいものが、わたしによく頑張ったねって言いながら、見渡す限り誰も持っていない本当の愛とかいう宝石を、こっそりくれるんじゃないかって思っている子供だったから。

まあ私のことは置いておいて、あみこの物語はあみこのときめいた通りには進まなかった。アオミくんに落胆しても、文句を抱えたまま奔走する。アオミくんにとって自分が、自分がアオミくんに対して思っていたほどには特別じゃなかったことを知る。それどころかほとんど「一度話したことがある人」くらいの立ち位置だったのだとも思い知る。それでも足を止められない。ピュアなあみこに、打算はない。すなわち失うものがないのだ。とにかく諦めずに頑張る、という言葉に、多くの人はぱっと見の印象でポジティブで健気ない良い意味を捉えると思うのだけれど、突っ走る方角を正しく選び取ることもできない思春期の少年少女にとってそんな衝動はもはや害悪であったのだ。だけど、誰かにとって毒みたいな行動が、もっとずっと俯瞰したどこかからの目線の中では、胸に突き刺さってダイヤを砕くピュアなのだ。撒き散らされたダイヤの雨に、私たちがあの日、傷ついたまま閉じ込めてきたあの頑なな壁はきらめきの原石だったのだと知る。あみこの行動はほんとうにめちゃくちゃで、実害を被った人もいるけれど、未成年のうちくらい何も守らなきゃよかったよ。とか、ちょっと切なくなりながら、思う。

つまらない女を好きになったアオミくん、そんなの嘘でしょ、またニヒルに見下して、世界をこんなもんかと曇らせて、あんな女本当は何にも面白くないって言ってよ。そんなあみこの思いが流れ込み、ああ、本当に、この人ならきっと。って心から期待した人が実際あんまり面白くなかったときの悲しさってすごいよね。と胸がずきずき痛んでいる。この世界は私が思っているよりも素晴らしいんじゃないか?という喜びと、この世界は私が期待したよりもずっとつまらないんじゃないか。という落胆が、ゆっくり交互におとずれる人生だ。ぎりぎり正気を保てる程度のよく計算されたスピードで、自分を責めるのと自分以外を責めるの、どちらも多分同量くらいで繰り返していく人生だ。あみこ。つまらない男を殴りとばして、それからずっと長い人生で何度でも期待と落胆を繰り返して、私たち生きていこうね。生きるのは、へたなほうが面白い。私もね、大きい声じゃ言えないけれど、私なんかに見向きもしない人を毎日やまほど見ていく中で、そういう人たちがわかりやすい光に群がる時、心の中のものすごく小さい声でつぶやくよ。絶対誰にも聞こえていないはず。「あんな女、大衆文化じゃん。」

それでも、私は私のわかりにくい面白さで生きるよ。私のことを好きになるべきひとが、私を見かけたとき、絶対に一目でわかるように。どんなに自信がないあなたも、疑り深いあなたも、諦め続けたあなたも、無理やり解っちゃうくらいにね。


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