「悪気のない最悪」-岡村隆史さんのANNでの発言に対して思うこと
【前提として】
筆者はAV業界に従事して4年になる言わば出演者です。このnoteは性産業に対する発言とそれに対する反応を巡り考察していくものですが、性産業を貶める意味も、性産業やそれに関わる人たちを侮蔑する発言を擁護する意図も全く持ってございません。この業界で元気に働き、そのお金で美味しいご飯を食べています。
そして、性産業に携わる一人であると同時に、この時代に生きているただの一人の女性です。女性蔑視的発言には素直に傷つき、あるいは傷つかなくともそれによって誰かが傷つくかもしれないことに心を痛める一人の人間です。特定の価値観について、全否定も全肯定もできない立場から、色々な方向から考えてみて思ったことを、少しばかり綴らせてもらおうと思います。
聴いてみた
普段あんまり深夜ラジオとか聴かないくせに、こういう時だけいそいそと聴くのもなんだか野次馬根性があるみたいで自分に対してもモヤっとするけれど、それでもここには私の日々面している違和感と同種のものが確かに存在しているので、岡村隆史さんのオールナイトニッポンをタイムフリーで聴いた。
5/1に放送された謝罪自体は、「不快な思いをさせた方に…」「不適切な発言があり…」とこの手のクレームに対応する際によく繰り出されるフレーズだったけれど、真面目に反省している印象を受けた。そのあと矢部さんが入ってきてから説教が続く流れにも好感を持った。少し斜に構えた視点で見ると、”モテない男子がそれゆえに培われた女性への敵視を種に、非モテであることを開き直って冗談を言っていたら、恋愛経験がそこそこある友人がマジレスで注意しにきた”みたいな、なんとも言えない侘しさを感じたけれど、その構造さえもなんとなく、現状への適切な諦めと反省を試みる二人の姿勢の前では美化さえされて見えてしまう。本当はこんな如何しようも無い現実、美化したって仕方がないのだけれど。
とにかく私自身は、一つ間違えてしまったから二度と人前に現れるな、という理論にはやっぱり乱暴だと思ってしまう人間なので、この回を聞いて、ちゃんと反省して、問題を見直して、ゆっくりでもいいから価値観をアップデートしてこれからもプロとして頑張っていってほしいと思っていた。お茶の間でぐるナイが流れている中で夕飯を食べながら大きくなったけれど、別段彼らに思い入れはない。笑わせられた思い出や、深夜のラジオ越しになんとなく救われた思い出がある人はまた感じ方が違うと思う。好きだった分ショックだった人もいるだろうし、逆になんでそんなことで?と思った人もいると思う。風俗で働いたことがないけれど、女性として生まれたからこそ許せない、と怒りに燃えた人もいると思うし、風俗で働いているけれど気にならないという人もいると思う。社会における価値観は日々アップデートされていくべきで、それは歴史を遡っても自明であることなのだから、去年にはなんとなく許されていたことが今日にはもう許されなくなっている、なんてこともよくあって当たり前だ。
最低限の優しさくらいは
私たちは進化している。より良い方へ、向かおうとしている。全ての選択を必ずしも正しく選んで行けるわけではないし、傷つけあったりもするけれど、議論することには意味がある。議論は喧嘩ではなく、当然勝ち負けを決めるための儀式でもなく、ただ、踏み潰されてしまう心が一つでも減るようにと言う約束のもと進む方向を決めるための欠かせない工程だ。私たちが知性と道徳を重んじる動物でいるための最低限の礼儀作法だ。誰も惨めな思いをしないといいな、と願うこと。そのくらいの最低限の優しさくらいは、共通認識になってほしい。
「そんなことまで炎上しちゃうなんて、肩身がせまくなったなあ」なんて落ち込む男性の声もよく耳にするけれど、誰もあなたに特別窮屈な思いをしてほしいわけじゃない。ただ、あなたが何も考えないでいる間にずっと窮屈な思いをしていた人が、居心地のいい世界で生きられるように、一緒に考えてほしいだけなのだと思う。自分が享受していた自由が、誰かに窮屈さを強いることによって成り立っていたものなのだと、全く知らないままで生きていくのは、なんだか人として、大事なピースが欠けているような感じがしないかしら。私は自分で言うのも変だけれどかなりの「差別をしない主義者」で、なんと言うか、脊髄反射レベルで世の中に蔓延るあらゆる差別を再生産・継承しないようにという気を払って生きているという自覚がある。具体的な説明は省くので信じてくれなくても構わないけれど(ただずっと全部をフラットに捉えるということ以外していないわけなので、説明しようがないし、これを読んでいる人に信じてもらえるかどうかというのは私自身の精神のあり方に全く関係がない)元を辿るとそれこそぐるナイを毎週見ていた家族での食卓が、当たり前として私以外の人間の差別意識の発露の場だったからだ。性転換まで済ませているニューハーフの女の子がテレビに出ていると、転換する前の性別を叫んで罵り、女性芸人の容姿を弄って笑い、私やきょうだいに男など悪だと教え込んで男性恐怖を煽るわりに、恋人を作らずにいると同性愛者なの?と悲しい顔をして聞いてくる。そういう発言の、一つ一つを精査していた。嫌な子供だったと思う。母親と父親を心の中で断罪するなんて。それでも私は、彼らの子供である前に一人の尊厳ある人間なのだということを知っていた。それは、私がこの世界をどう見るか、そこで何を思うか、という細やかな一つ一つのことによってのみ保たれるものなのだということも知っていた。私は人間でいたかった。
最悪な食卓
母の発言に、もしも自分が同性愛者だったらこの目をずっと向けられるのか、と感じて落ち込み、”同性愛者だったかもしれない自分”の代わりにちゃんと傷つこう。ニューハーフのあの子だったかもしれない自分、容姿いじりを逆手に取らないと夢が叶えられないかもしれなかった自分、いろんな、私だったかもしれない誰かの分まで、今この食卓にある禍々しくて醜い差別意識――もしかしたら、もっと昔はもっと酷かったのかも知れない。両親は、時代が生んだ歪みをそのまま継承してしまっているだけなのかも知れない。そこには悪気はなく、彼らにとってはそれが”普通”なのかも知れない。それでも――それをきちんと観察して、どの言葉がどんな人を傷つけてしまう可能性があるのかをよく考えて、そしてそんな悲しい無自覚はもう二度と、誰にも受け継がないようにしよう。と思い続けていた。そしてそんなことは、人類はどうしたって問題だらけで、それでも一つ一つのことをよく考えて話し合いながらルールを決めたり壊したりを繰り返してコマをゆっくりと進めていくほかできないのだから、言うなれば当たり前のことなのだと思う。そんな感じで、実家の食卓の居心地は最悪だった。
「悪気のない最悪」はある。悪気がなければいいなんていうのは、成長する気の無い人間のセリフだと思う。どんな時代に生きたって、本当にそれが正しいのかを問い直せないままで鵜呑みにして生きていくことや、その結果誰かの心を踏みにじっていることに気づかないままでいることは、かっこ悪いし、それこそ怠惰のよってひどく自分自身の魂を汚してしまうことのように思える。踏みにじられる機会が平等に回ってくれば少しは考えることもあるのかも知れないけれど、その機会さえ平等じゃない。もはやどこから説明したらいいのかわからないけれど、私は卑怯なことに、“私も優しくなろうと思い続けているから、あなたもどうか、そういう風に思っていてほしい。”というような、無責任で傲慢な感情を誰も彼もに抱き続けてしまう。それでなんの得があるんですか?むしろ損をするんじゃないですか?と思う人の方が、多いのかも知れない。それでもなんです。
ピンチをチャンスに思考法の落とし穴
まさに損得でものを捉える思考の中には、今回の岡村さんの発言に至るような思考回路もあったのかも知れない。私自身がいる業界の話をするならば、今コロナ禍においてキャバクラやナイトクラブでの収入が減ってしまった女性たちを、AVに誘うチャンスだと捉えている人は当然いるのだと簡単に予想できるし、モラルや倫理観の話を用いずにそれを裁くことは難しい。一つの産業として続けていくために、ピンチをチャンスに捉え直すという思考法はビジネスにおいて重要であることは確かだし、他人の心配をしない鈍さが吉と出る場合もある。そういうやり方で成功してきた人は、進んで敏感になるということはまずしないのだと思う。
特に性産業には、人の心の繊細な部分をあまり見ないようにした方が楽しめるというような側面があることは否定できない。お金に困った美人さんが風俗をやりますよ、だからそれまで我慢しましょうね、という意味の言葉は、そのまま食べ物などの身近な商品に置き換えればなんらおかしな文脈ではないと大多数の人が感じると思う。
「コロナで余った良質なまぐろが、格安で手に入るようになりますよ。」と聞いたら、素直にラッキーだと感じる人が多数だろう。(本当に想像力を働かせるならそれでも「本来の価格より下げて漁師さん大変じゃないかな…」とか「余るってことは営業できていないお店がたくさんあるということでその人たちの生活は大丈夫だろうか」とかどこまでも考えることもできるけれど、まあそれはキリがないので一旦置いておきましょう)
性風俗で働く女の人をシンプルに「商品」だと素直に思える人からすれば、あの発言は、面白おかしくポジティヴに事態を捉えている、それどころか外出自粛を無理なく斡旋している、どちらかというと気の利いた発言だったのかもしれない。
そして、それは自分自身が商品だと割り切ってしまっている女性からしても同じことが言えるのかもしれないと思った。肯定している人と否定している人とでは、そもそもの前提が違う。
(念の為書いておくけれど、私個人の感情としては彼の発言に対して逆立ちしても肯定することはできない。シンプルにドン引き、というやつである。だけれど、一方で性産業でご飯を食べている身としてはもう一つ冷静になって物事を見なければならないと感じてこの記事を書いている)
AV業と風俗業は似ているところがあると思う。業務内容は厳密にはかなり違うところがあるけれど、どちらかからどちらかへ職を移る女性も多いと聞くし、なんというか、一般男性の娯楽としても働いているけれど、それ以上に自力で性的な満足へたどり着けなかった男性の欲望や寂しさの、最後の受け皿となっているようなところが似ている。
もちろん全ての風俗好きな人やAV好きな人がそういう流れでたどり着いている訳ではなく、むしろもっとお気楽に、娯楽の感じで利用している人が多いのではないかしら。これらの業種から生み出されるハッピーな作用も絶対にあって、そこについて否定することはしたくない。そういうところに救われることもある。
また、今回の発言に対して「やりたくて風俗をやっている人もいるのに」という発言が主に男性から散見されていたと思うのだけど、それがどのような種類の「やりたくてやっている」なのかは、働いているひとりひとりに聞かなければわからない。聞いてもわからないかもしれない。ただ、実際にその立場になったことのない人が想像やサービスとしての発言を鵜呑みにして言うのは違うんじゃないかと思う。私はAVをやりたくて始めたけれど、その「やりたい」にもものすごく色々な種類の感情が混ざり合っていた。理由も山ほどあった。簡単に、一緒くたに決めていいものではない。
人権意識のレイヤー
少し話がジャンプして申し訳ないのだけれど、岡村さんの発言に心の中のピュアな少女がドン引きするとともに、酸いも甘いも嚙み分けてきた味わい深い自分の方が、苦笑いをしながら考える。一口に「優しい人」と言っても、世界中の「優しさ」は同じ基準の上にあるわけではない。言い放たれた全ての「優しい」は、それぞれの属する環境、コミュニティ内の人権意識や価値基準においての「優しい」であって、それは他のコミュニティに輸入されたとしたら最低最悪な価値観だったりもするのである。人権意識には何層ものレイヤーがあると感じる。そもそも風俗店で女性をもののようにひどく扱うお客さんたちがいるとするならば、風俗が好きで、お金も持っていておそらくきちんと支払っている、趣味のように楽しんでいる岡村さんはいわゆる「良客」と言われる存在かもしれない。優しい、他の誰かよりも”マシ”なお客さんなのかもしれない。そもそも女性が商品とされていることにもはや疑問を抱かない人ならば、彼を「差別どころか、風俗嬢をリスペクトしている」と擁護したくもなるだろう。このお客さんは優しいな、と感じた人からすれば、「あの人は女性にも優しいのにどうして叩かれるのだろう」と疑問に思うかもしれない。
湘南系の不良ソングをふと口ずさみ、勝手に「おいしいパスタ作った”お前”」とか「”家庭的な女”がタイプの俺」とか失礼な物言いだな!と憤怒していると(じゃあ歌うなという話である)それを聞いた友人がふざけてこう言った。
「もしかしたらその歌詞を書いた人は本当なら《尻のでかい女がタイプの俺》とか言いたいところを言い換えて家庭的って言ってるのかもしれないね。」まずそんなことはないだろうけれど、仮に、もしもそうだったとしたら、それはかなり、気を遣ってやさしい描写にしようとしているということなのだろうか……? 一応考えてみる。女の人を「お前」と呼ぶのが当たり前のコミュニティで、さらには「尻のでかい女」と称してもなんとも思われない環境、それでもあえて「家庭的な女がタイプ」と言い換えたこの人は彼らの界隈の中では紳士なほうなのしれない。「彼は超・女性に優しいから!」と仲間内では評判なのかもしれない。喧嘩してパチンコ屋に入り浸るのが当たり前の環境なら、景品を持って数時間後に謝りに来てくれるだけで超優しい奴扱いされるのかもしれない。
そんな虚しいことがありますか
「優しい」の基準は人によって著しく違う。人権意識がどこまでアップデートされているか、というのが重要な基準なのかもしれない。色んな場所で、いろんな「人から優しいと言われる人」を見てきた。完全無欠な優しさなどなく、多くの優しさが、まだまだ深度を増す必要性がある、未完成な優しさだ。
それでも、他の誰かよりは「マシ」なのだ。殴られないだけマシ、謝ってくれるだけマシ、必要以上に搾取されないだけマシ、追い出されないだけマシ、ルールを守ってくれるだけマシ、お金を払ってくれるだけマシ、罵られないだけマシ、様々な「マシ」の上にある、所謂「優しい人」というものがある。これを書いていて悲しくなった。今回の件だって、ちゃんと炎上しただけ「マシ」なのだ。謝罪があっただけ「マシ」なのだ。明るい冗談のつもりだったのだから仕方がないのだ。深夜ラジオなのだから友達同士の雑談くらいのコンプライアンスのゆるさでやるのも価値観の一つとして大事で、たまたま吊し上げられてしまったのは不運だったのかもしれない。そんな風にいくつも理由を探して、あんまり怒らないように、受け入れる理由を探そうとしている自分に気がついて悲しくなった。みんながみんなで晒されているこんなに大きな危機の中で、多かれ少なかれみんな不安な日々を過ごしているのに、「女性はお金に困ったら風俗で働けるからいいじゃん」と思われているところ、それを「いきのいいマグロが山ほど入るよ」とでも言うのと同じノリで言われているところ、(そもそも美人であることが女性という商品の性能であるように当然に語られていること)、そもそも女性に限らずお金に困った時のセーフティネットとして、ある程度の危険や心的な負担を伴う仕事という選択肢以外があまり示されていないこの国の在り方にも問題があって、そこまで想像が行き渡らないまま「美人が風俗に来る!」ということをポジティブな表現として言ってしまったこと、それをなんとかして許そうとするなんてそんな虚しいことがありますか。怒り狂いたいですよ。
それでも私も、岡村さんみたいな、「差別意識が根底にある優しい人」をよく見たことがあります。「”AV女優だけれど” あなたをリスペクトしますよ!」と、わざわざ言ってくるような人。本当にね、普通に優しいんですよ。そういう人って。見下している存在相手でもちゃんと人間扱いをしてあげる、というヒロイズムに酔っているから。過剰に贈り物をたくさんしてくれたりするんです。そして、見下されているのは肌感覚でわかるので、あまり喜ぶことができずに毅然としていると、途端に手のひら返して「格下のお前にあんなに尽くしてやったのに!」と言わんばかりに罵詈雑言を吐いていくんです。やっぱりね、「お客さんの中ではマシな方なんですよ。」と擁護されるのではなくて、普通に一人の人間として、本当のまっさらなリスペクトを持って生きていくほうが美しいですよ。自分の中の弱さや、捨てられないプライドを庇ったままマシな人間に見せようとすると、どこかでやっぱりボロが出たり、そうでなくても勘のいい人には見抜かれてしまったりするものだから。
変わりたくなくたって、変わっていくしかない
ややこしい時代になったな、とか、地上波でおっぱいが見られた昔はよかったなあとか、そういう懐古に浸るのもまあね、悪いことだとは言わないけれど、優しさとか思いやりとかユーモアとか、そういうものの形も絶対に日々変わっていってしまうから、少し大変かもしれないけれど、毎日確認し直して、誰かの心を踏みにじってしまうことをしたくないと祈りながら、変わりたくなくたって、変わってゆくしかないのだと思います。誰もが清廉潔白なわけはなく、女だからとか男だからとかそれだけで割り切れる話をしているのでもなくて、(もちろん、女の子同士での会話にだってドン引きすることもあります。なんだってそうです。それでも人間にはどこかそういう、他者をモノ化して自身の娯楽として都合よく扱ってしまう悪い癖があったりするものなんだと思います。悲しいけれどそうして生み出される感情でなんとか退屈をしのいで生きていくのも、一つの在り方なのかもしれないね。)(【追記】ただその「モノ化」によって踏みじられる機会が女性はおそらく圧倒的に多いです。どっちもどっちと済ませていいレベルではなく。それは、女性として生まれなければ実感できないものなので、誰かの話を聞いたり想像するしかないです。)
自分の中にある淀みや、他者を理不尽に傷つける可能性がある要素に、どれだけ敏感になれるか、それが発露される場所をコントロールしていけるか、そして適切な場所で息抜きなり自身の精神の調律をすることができるか、という誠実さをみんながみんな少しずつ磨いていくことでしか、この世の中は良くなっていかないのだと思います。
様々な矛盾や辻褄合わせの小さなずるを重ねて丸っと含み切ってしまったまま、今更お腹を割いて全てを洗い流すことなどできず、おかしな音を立てながらこの世界は回っていきます。それでもほんの少しずつでも良くなろう、と思う全ての人が、どうか思い思いにより良い世界のことを夢想し、現実へと落とし込んで行けますように。それを不用意に邪魔する人がなるべくいませんように。そう思いながら、わたしもちゃんと淀みながら、なるべくマシであろうと生きています。今日より明日、明日より明後日、もっと良くなっていこうと、約束をしながら。
※ 特定の歌詞表現について貶める意図はありません。見てきたカルチャーとは違う界隈での創作物(そこに通念している価値観)という意味で話題に出させていただきました。カラオケでも歌うし、多分割と好きな曲です。
※ 同じく、特定の業界に関して貶める意図も全くございません。わたし自身自分の従事している業界で、良いことや面白いこと、愉快なことも日々たくさんありながら、だからこそ辞めずにいます。好きな人もたくさんいます。あと「お客さん」という表現は風俗店に来るお客さん層を他人の話を元に想像した上での人物像という意味で使っているため、わたし自身がコミュニケーションを交わすことのあるファンの方々などとは一切関係がございません。わたしのことを応援してくれている皆さん、マジで差別意識限りなくゼロの方多すぎるし優しくて賢くて風に人間としてだ〜い好きです……人間として大事に思ってくれているのが伝わるし、私も大事に思っています。誠実なみなさん気に病まないでね。
と、ここからは定期マガジン「Alternativeな彼女」購読の方に向けた最近の日記です。
死ぬほどくだらないので読み流してください。でも読んでも死なないので読んで欲しいです。えへ〜
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