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9/1。生まれた頃の光

みなさんこんにちは。戸田真琴です。

noteで文章を書くのは初めてです。これまでは自宅収録のゆるゆるWEBラジオ「まこりんレディオ」の配信場所として使っていました。こちらももはや不定期ですが気になる方はぜひ聴いてみてくださいね。最新回(といっても配信から1ヶ月近く経ちますが…。)は大阪のトークイベント内で公開収録をしたもので、とっても和気藹々とした楽しい回になっています。

日記としての役割はこれまで、事務所が運営しているライブドアブログ「まこりん日和」が担ってくれていましたが、そろそろいい加減私の発信する(文章という形で発信したい)内容と、記事の隣に表示される私出演のAVの広告やスマホ閲覧時のはれんちな漫画の広告などの間にあまりにも大きなギャップがあると感じるようになりました。いや、更新がないときでもたくさんの方が覗きに来てくれている「まこりん日和」に、出演作品のリンクを貼っておけばたくさんの方が買ってくれるのではないか…。と、ポジティブに捉えることもできなくもないのですが、まあおそらくそこで売り上げに大きな影響が出るということもないでしょう。文章もAVも両方を楽しんでくれている心強い方々はもちろんいますが、どちらかだけでいい方がたくさんいらっしゃるのも事実で、それはまったく悪いことでもなんでもなくどれもただ100点満点の喜びなのです。

自分でブログを読み返しても、おお…この真剣なフレーズの横に、「童貞のフリした絶倫少年が…」というタイトルが載っている…。と、広告についつい目が持って行かれてしまうのです。

なので、ここはいったん、分けて考えましょう。文章というのは、なるべく気が散らない状況であなたに読まれて欲しいと願い、生まれてくるものだと思うので。

なので、今後は別段AV女優としての活動に深く関わった内容ではないな、(そもそも私の書く文章はだいたい全部がそうなのですが)というものはこちらのnoteに上げていきたいと思います。

イベント情報や出演情報、AV女優としての活動に深く関わる内容は今まで通りまこりん日和にてお知らせします。

…というのは、どれもきっと程のいい言い訳で、私はまあまあ飽き性なのです。

協調性がなく、同じことの繰り返しにはすぐに慣れてすぐに飽きてしまい、今もマンションの2年契約を更新することをやめ、特に理由もないのに気分転換のために引越しをしようとしています。同じ場所にずっといると、その場所やそこにいるということに責任が生まれていく感じがして、誰のせいでもなく足取りが重くなったりするものです。「まこりん日和」も、記事を楽しみにしてくださる方が増えれば増えるほど、次はどんな内容で、どのくらいのボリュームがあれば満足していただけるかな…。と、頼まれてもいないのに悩んでいる自分がいました。私はたぶん無駄に真面目なのです。そしてそれを自分で知ってしまっているので、必要以上の真面目さが足かせになってしまうギリギリ少し前に、ふりはらってしまうための術も習得しているわけなのです。

なので、日記を書く場所を軽く引っ越したと思っていただければと思います。

引越し直後って誰でも「今度こそ可愛くていつも綺麗なお部屋にするぞ!」とか、思い思いの理想のお部屋を保つために気合を入れるものですが、私も例外にあらず。どうせ続かないのに、「9月は1日1記事ずつUPしよう」などと頭の中のお調子者が叫んでいます。本当に続いたら褒めてください。まだまだ子供みたいなところがたくさんあるのです。たぶん死ぬまで完全な大人にはなれないのだと思います。それが私の好きで私の嫌いな私です。

さて、9月になりたての今日でしたが、私は引越しのために諸作業をし、早くから動き回ったせいで眠たくなって夕方はじっくり眠りました。

今日から新学期のみなさん(横にAVが表示されない場所なのでやっと罪悪感なく学生さん向けの言葉も書ける…!)、なにかの節目だったみなさん、はたまた何年も前、夏休みが明けた日のことを思い出してしまったみなさん、いろいろな今日を過ごされたことと思います。私は、8月31日の夜から夏休みの宿題に初めて手をつけて、朝までもがき、結局終わらないまま投稿するようなどうしようもない子供でした。昨日も、ああ、特に何も努力しない夏だったな…。と思いながら感慨もなく一日を終えました。平成最後とか、夏の終わりがどうとか、そういう降って湧いたきっかけを使わなくても私はいつでもエモくなれますし、いつでもエモスイッチを切って感情をニュートラルな状態にしておくこともできるわけです。今年は、エモスイッチを切って夏を終えました。終える、終わり、そういう言葉が書ける日があるのって幸福だと思うのです。本当は、日々はずっと絨毯の模様のように編み目と編み目が重なり合ってただただ延々と続いていて、昨日だって今日だって何かが実際に終わったわけではないはずなのに、終わり、という名前の印をぽんと打つことで、諦められる何かとか、見つめなおせる何かがある。どう生きたってどうにもならないような道も、私たちはこうして自分で夏の感情の色に塗って、その終わりに点を打つ。そういう手作業があったから、いつかまたこの夏を思い出したりもできる。さあ、9/1が来てほしくないと願っていた頃の君の夏はどんな色に塗っていましたか?私あなたが優しい色彩のひとつもない夏を生きていたことがあったとしたって、それをすてきだと思います。いつか他人からの言葉で閉じ込めた本当の見て欲しかったあなたを、少しずつ、取り返していくのも私たちの旅だから。大人になるっていうのは、聞き分けが良くなることじゃない。聞き分けがいいふりをしなけりゃいけなかった頃に、「いらない」とラベルを貼ってゴミに出してしまったピュアな自分自身の一部を、見つけに行って抱きしめてあげられるくらいの、強さとかっこよさを手に入れることであってほしい。

自分のことを、他人のものさしじゃなく、自分のものさしで、ちゃんと測ってちゃんと見つめてちゃんと好きとか嫌いとか、その両方の感情をもった「愛」で受け入れてあげられるようになることを、大人になる、という言葉の定義にしちゃいたい。私はずっとそう思っています。

今日発表された、音楽と映画の祭典「MOOSIC LAB 2018」のメインビジュアルに、伊藤万理華さんの麗しいお姿とともに私の書いたコピーが載っています。これは今年のOPムービーのために書いた短い文章から抜き出したもので、この感情こそがこの世に音楽と映画が存在することに対する一番正しい肯定だと思っています。

「この世界は、映画も音楽もなくたって美しかった。それでも。」

ずっと思っていたことで、それは、幸福なことでもありました。

8月が終わりかけると近年は、twitter のタイムライン上でいじめ問題に関しての話題が多く上がるようです。ひとりひとりの苦痛や、それに対する戦いも、なにひとつ一緒くたにはできないので、まとめて「いじめ問題に対して」大きい意味で言葉を発することはできませんが、ただ一つ思うのは、他人からは絶対に奪われていけないものというのが人間には一つだけあるのだということです。

持ち物や、お金や、なんなら周りから見たときに発生するクラス内の地位とか、安全な立ち位置とか、家族内の信用とか、そういう目に見えないものであっても、他人から奪われたとしてそれで本当の本当にあなたの価値がなくなるということはありえません。あなたの価値は、あなたがあなたとして生きているということ、あなたがあなたの身体を操作して生きていること、あなたの脳があなたの脳として機能して今日も思考していること、そういうところにだけ、あるのだと思います。

ただ、他人からの理不尽な否定や、ひとりひとりの繊細な事情を無視したがさつな指導は、思考の自由を奪います。

いじめによる強引な否定だけではなく、愛や優しさのふりをして相手の本当の姿を受け入れない指導や、友情のかたちをした協調性の強要、とにかくあなたがあなたとして生まれたままに自由に生きていていいんだ、ということを肯定しないすべてのことが、少しずつ、じわじわと、アレルギー物質のように体内に積み重なって、いつしか人は「私が私として生きているということだけが、素晴らしいんだ」という感覚をずいぶんと遠くへ置いてきてしまいます。生まれた頃の光を、いらないものだと言い聞かせ、捨ててしまいます。

あなたが生まれた時、その手に一緒に持っていたものなら、絶対にずっとあなただけが握りしめていてほしいのです。そういうものの価値は、他人には決してわかりません。あなたがあなたであることの価値を、孤独な存在であるあなたの本当の素晴らしいところを、あなたにしかわからないのかもしれなくても、だからこそ、ずっと知っていて欲しいんです。

そう、音も光もなくなったってあなただけは、あなたが居ることを、あなたとして生きていることを解り続けることができる。

音楽も映画もなくたって、あなたは美しかった。あなたの世界は美しかった。それを本当に破壊されきってしまうことだけは、どうしてもだめだというのが、赤の他人の私からも、大声で叫ばずにはいられない願いです。

そんなことを思いながら、9月が始まります。とても忙しい月になりそうですが、言葉は、書いて見えるところに置いてさえおけば、あなたが好きな時に触りに来られるものなので。言葉の、そういうところが好きです。予定を合わせなくたって会えるところ。

最後までお読みいただきありがとうございます。


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