見出し画像

垂直落下流水雪桜

 才能とはなんだろうかと考える。人によってはアレルギーを起こす話題だろう。時代はうねり、教科書でも見たことがないような大きな惨事が世界中に広がっている。イメージすることと実際にその中を生きることは、まるで違うことなのだな、と、幾度も経験と想像力のパワーバランスを弄り直してきた私は、ぼんやりと悔しい思いをする。想像力こそが優しさなのだと言いつづけ、想像力に殺され想像力に揺り起こされてきたこの魂が、それだけでは、生きられないと知ってしまいそうなのだ。優しさだけではどうにもならない、だけれど、最低限優しさがなければほんとうに、もっとずっとどうにもならないのだから、きみがそうしておろおろと窓の外から、喜んでいいのか分からないまま眺めた雪がすこしだけ私たちの頭を冷やした。大きなうねりの中を生きている。

本当はね、どんな悲しいこともどんな大変なことだって何一つ起こらないままだって、私たちは日々すこしずつねじ曲がっていったに違いないのよ。それでも、こんなにわかりやすく誰かの愚かさを見たり、ちょっと全身の毛穴が逆立つような言葉聞いちゃったり、おかあさんぜんぜんわかってくれなかったり、友達は無駄に楽観視して飲み歩いていたり、ねえとても、私たちまた抱き合えるのかどうかが、本当はいつだってわからないんだってこと、わかりやすくなっている今なんでしょうね。感染症の重症になって治療が始まった人は、治るまではもう会えない。治らなかったら、生きている間にまた会うことができないそうだ。イタリアの現状を記録したブログで読んだ。それが本当だったら、なんだかちょっと信じがたい。死に目に会うことだけがすべてだと思ったことはないけれど、しばらく合わないうちに死んでしまった人のことを思い出すと、もう一度くらい会いたかったな、とやっぱり思ってしまった。感染症が大流行しなくたって、その人が誰かに愛されていようと愛されていなかろうと関係がなく、私がこころからいいなと思う人なんてこの世のうちではうんとめずらしく、それなのに死んでしまったりするのだから、今のこの状況が、いかに、誰もが死と近いところを歩いているのかというところを意識せざるをえない。

先週くらいまで、なんだかみんな、ぼうっとしていた。この騒ぎが始まった頃の興奮状態にだんだんと慣れてきて、意外と大したことじゃないじゃん、と言ってお出かけを再開していた。友達は明日も満員電車で仕事に行く。人は、あまり激しい感情を、何日も持ち続けることは不可能なのだと思う。ときめきが持続しないように、恐れや不安も持続しない。なんとなく、心身に負担がかからないような解釈をし始める。この世界に対して。私はそれが昔からなんとなく嫌だった。

ここから先は

1,846字

¥ 250

ありがとうございます!助かります!