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優しさと勘違いして

以前の私はいつも答えを探していた。
それは見つかることのない答えだ。

「今あの人は何を思っているだろう」
「これに対してなんて答えたら正解だろう」
「どんな服を着て行ったら喜んでくれるだろう」
など、書き出したらきりがない。

相手の気持ちを考え、相手が求めているであろう自分の言動を探す。ただどう頑張っても答えが見つからず、困惑し不安になりながらそのとき考えつく、その相手にとっての最善であろう答えを出す。日々そんなことに必死になりながら過ごしていた。

私は相手のことを思いやることができている、相手の立場に立って物事を考えられている、と思っていた。周囲からも相手のことを思いやれる優しいひと、と言われることが多かった。だからこそ自分でも当たり前にそう思っていた。

でも今思えば、あの頃の私は毎日必死で余裕がなくて、答えが見つからなくていつもどこか不安で、私がすべき他者への言動の答えをネット記事や本から探す日々。答えがわからないと不安だった。誰かに正解を教えて欲しかった。

正解なんてどこにも書いていないのに、答えを探し求め、いつもさまよっていた。

そんな日々の中、私にとってすごくショッキングな出来事があり(その出来事については長くなるのでまた別の時に)、私はその出来事を通して自分自身と向き合う時間を持つことになったわけなのだが。

私は私が何を求めているのか、全くわからなかったのだ。今、自分が何を食べたいのかすらもわからなかった。友人とランチのお店を探す時、何が食べたい?と聞かれても答えられない。いつも相手が今何を食べたいだろうか、という分かりもしない答えを必死に探していたので自分が何を食べたいかは考えたことがなかったのだ。そのことに気がついた時はまぁなかなかの衝撃だった(気がつけてよかったのだけど)。

そこからは毎日が特訓だった。

自分が何を食べたいかを自分自身に問いかける。コンビニでは何を買いたいかを問いかける。日々の生活の中で、今私は何がしたい?何が欲しい?些細なことでも問いかけ、これまで聞かずに過ごしていた自分の声に耳を傾ける努力を重ねた。

最初の頃は私の心はすでに「どうせ聞いてもらえない」と思い込んでしまっていたようでなかなか声を聞かせてくれなかった。しかし毎日問いかけを続けている中で少しずつ、少しずつ声を聞かせてくれるようになった。

私はその声を聞き、教えてくれてありがとうと返事をし、行動する。

すると、とても心地よかったのだ。

きっと心も嬉しかったのだろう。すごく温かく反応した。

そしてようやく、ようやく気がついた。答えはいつも私の心の中にあったのだ、と。本当にもう、本当にようやく、だ。

他者を思いやることはもちろん大切だ。でも自分を犠牲にしてまで、自分の心の声に蓋をしてまで他者に尽くすことは本当に思いやりなのだろうか。自分を犠牲にした上に成り立つ思いやりなど、他者は受け取りたいだろうか。いや受け取りたくないだろう。私は受け取りたくない。

まずは自分を大切にした上で他者を思いやる。

もしかすると、世間では常識なのかもしれない。

笑ってしまうが、私は26歳にして気がついた。

自分自身を大切にすること、自分の声を聞くこと、自分の心地よさを知ること、心地よさを選ぶこと。そんなことをようやく知り、ようやく私は私の人生を生きれていると、今、自信を持って言うことができる。

そして声を大にして言おう。

私は今、ちゃんと幸せだ。

#エッセイ #気づき #キナリ杯

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