「愛」とはなにか〜Vtuberに教えて貰った推し事のすゝめ〜

【ざっくり伝えたい事】
・愛とは、見返りを求めない無償の一方的な布施の感情である

・見返りを求める(○○したから反応して欲しい、見返りが欲しい)という感情を抱いた時点でそれは愛ではなくなる

・愛ではない愛は恋であり、罪悪、恋した瞬間、それは尊き愛とは裏腹の相手を束縛する呪いになる

・反応しない、干渉しない、否定しない、ただ自分の中にある「好き」という感情を見つめる事が「愛」である



こんにちは、都知事です。

都知事には最推しのVtuberがおりますが、推し始めたのは令和元年9月頃。(現在は都知事自身がファンを引退)


彼女の不思議な魅力に取り憑かれた私は、生活に余裕が無くなる程度にスパチャしたり、ツイッターで推しのことをツイートしていいねされて狂喜乱舞したりしていました。


「一方的に愛を叫んで見返りは求めない」をモットーに推していたのですが、気付かぬうちに、私の中にモヤモヤとした薄汚い感情が芽生えていました。


それは、「見返りが欲しい」とか、「スパチャに反応して欲しい」、「リスナーにチヤホヤされたい」という、言わば「目立ちたい」という自己顕示欲のような、そんな感情でした。

そんな私は、今思えばVtuberの配信なのに他のリスナーとコメントで盛り上がったり、「主役をほったらかしてしまう」ようなことを度々していました。今思えば大変恥ずかしく、愚かな事でした。


ある日、その事を芳しく思っていない、という事を別配信で知らされ、私は絶望しました。

「今まで一緒に楽しんでいるものだと思っていた」
「これから自分はどのように楽しめばいいのか」
「目立ってはいけないならスパチャは投げない方がいいのか」

「こんな気持ちで推し続ける事なんて出来るのか」

色々な感情が渦巻きました。
しかし、愚かな私はそれが「見返りありきの自分本位な感情」である事にまだ気付いていませんでした。


それからツイッターで悩みに悩んだツイートを撒き散らし、マシュマロを送ったりしました。

この出来事はツイキャスでお話されていたので、そのアーカイブを公開して欲しい、という旨と、自分勝手に振舞って傷付けてしまった事をお詫びする文面をつらつらとマシュマロで送りました。


「見てくれてないと思うけど、謝らずにはいられない」という、ただ自分が許されたい、楽になりたいというだけの自分勝手な感情です。


これを書いている今もなんと愚かで自分勝手な話だろう、と息吐いてしまいます。


しかし、推しは応えてくれました。
ファンボックスでアーカイブを公開してくれたのです。

有料のプランで公開されたのでここで明かすことは出来ませんが、パスワードに設定されたメッセージがまるで自分に向けて送ってくれているような、言わば男性特有の異性に対しての期待、みたいなものを感じました。

今となってはそれが如何に愚かな人間的なものであるか分かるのですが、その時は応えてくれた事への喜びと感謝でいっぱいでした。

ツイキャスの内容を改めて聞き返しましたが、答えはその時点では得られませんでした。


「結局、方針が明かされただけで自分の抱く感情への答えはない」。

今までの楽しみ方を否定された事への代替案は自分で考えないといけませんでした。


それから、相変わらずツイッターで悩みを吐露し続けました。

他の人とわちゃついてはいけない、スパチャは少なめにした方がいいかな、コメントとかあまり送らない方がいいかな、とか。


私は少々目立つくらいにはスパチャしていたので、私のスパチャに反応して下さるリスナーさんが多くいらっしゃいました。故に、私がスパチャをした時点で「目立ってしまう」し、「一瞬でも主役の座を脅かしてしまう」のです。

これへの答えは、割とすぐに頂くことが出来ました。


私はその日も深夜まで働き、推しに投げる為の資金を稼いでいました。


その頃私はツイキャスを頻繁に利用していて、その日も「今後どうやって推していこうか」について話す予定でした。


帰り道、推しからの通知は全てオンにしていた私にファンボックスの更新通知が来ました。


推しは飲み物をごくごくと音を立てて飲むASMRが得意で、その時は高音質な音を聞かせてくれるという内容のものでした。


「はぁ、これからの推し方に悩んでるのに、聞く気になれないよ」

しかし身体は正直なもので、気が進まないのをよそに、動画をすぐに再生していました。


高音質な嚥下音。その後のメッセージに、全ての答えがありました。


答えをくれたこと、恐らく自分の声に応えてくれたであろうこと、全てが全て嬉しくなり、ひたすら感謝しかありませんでした。


私はそれから、自分本位な考えを見直し、改め、「愛とはなにか」「推すとはどういう事か」「理想の愛の表現はどう言ったものか」と思考するに至りました。


「行動」「反応」「思考」「答え」の流れで、私は「見てもらえてる」とか、「一方的じゃなかった」という事を感じ取り、この迷宮から抜け出す事が出来ました。

(推しに対する「愛の正体」みたいなものはあまりに小っ恥ずかしいので有料版noteにて公開しております。出来れば見ないで頂きたい)


時には推しに躍進して欲しい想いから活動方針に口出しをして精神的に負担を与えてしまうことがあり、それも反省しました。

自分の思い通りに相手を動かしたいと思うのは、そこにどのような意図があっても、原動力が愛だとしても、結果としてそれは愛ではなく「所有」です。


よく親が「良い大学に行って大企業に勤めなさい」と言うのは、たとえ子供の幸せを願うものであったとしても、強制するのは愛ではありません。


「社会的にこう言う背景があり、高学歴であるのはステータスになるし、大企業に務められれば得られる給与や社会的地位も見返りが多くコスパが良い、しかし、やりたい事や学びたいことがあるなら自由に選択すればいい」と、相手を尊重した上で自分の意見を押し付けないのは「愛」と言えます。

この考えは私の「哲学のビュッフェ」の根底となっています。

https://note.com/tochiji/n/nd745cb5e8c41

そして時は流れ、思考が巡り、現在。

私は推しの為にできることは無いか、考え続けているうち、「人が人に干渉することによって相手を知らないうちに所有してしまい、洗脳し、拘束してしまう危険性」に気付きました。


それからは、長々とスパチャでメッセージを送ったり、リプライにコメントをすることは無くなりました。

それは相手を「否定も肯定もしていない」状態で、「それ、いいね!」と思ったことに対してのみコメントをしています。

日頃から愛の感情を爆発させず、暴走状態でないので、無条件に推しをよしよしして「生きてるだけでえらい」とか、褒めちぎることもしません。


これに関しては私の「相対的なものに縋ると必ず不幸が訪れる」という考えからです。

「生きててえらい」は、相対的に「死んだらわるい」になります。


日頃から死へ憧れを持つ推しに対して、私はその考えを否定したくないし、束縛して自由を奪いたくない。

嫌われてもいいし、Vtuberを突然やめてもいい。

推しが選んだ道であるなら、無干渉の領域からそれを見守りたいと思っています。

これが、私の現状考えうる「愛」です。

本当の愛は、まだ分からない。

ではまた。

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