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「おもしろいこと書けと言われていない」

 20年以上前かと思う。ネット上のある場所で、題目を決めて文章を載せ、参加者同士で読んだり感想を書いたりするのはどうかと、自然発生的な企画に人が集まった。

 その場所全体に毎日のようにアクセスしてくるのはせいぜい30人か50人程度だっただろうが、その企画に関して書けば、掲載までの期間を半月くらいとった場合でも、参加するのはいつも5人程度だった。読み手が何人いたかわからないが、書いていたのはそれくらいだ。

 それだけの少なさだと、作品が好みに合わないとか、作品世界の雰囲気がよくつかめないといった場合に誰もコメントをつけないと、目につきやすくなってしまう。もし参加者や読み手が、いまでいう「スルー」をしてしまえば、その人は参加意欲を失ってしまうだろう。そこで誰からともなく、そのときのお題を出した人が、コメントがつかない作品も含めて、何か書くのが慣例になっていった。

 あるとき、わたしが出したお題のときのことだ。ときどき参加していたある人物が、一編を載せた。その人は年代がわたしより若かったということと、ほとんどの人に対して、自分が理解されないのはわかっていると言わんばかりの、鎧か殻のような態度を見せていたことで、正直なところ、わたしは接し方がわからずにいた。

 もしやネットで傷つくのが怖くて、遠巻きに周囲を見るうちにすっかり鎧を脱げなくなったのかなという気がしていた。ただ、本人の言葉として、創作を今後ずっとやっていってプロになりたいとは普段から書いていたため、そういう企画があるからには顔を出そうかと、やってきていたのだろう。

 その人がわたしの文章にコメントをくれたこともあった。たとえば「この行とこの行のあいだに時間経過をもう少し感じさせる表現があったらよかった」などと、短いながらも指摘をもらったのは覚えている。

 そして、その人がわたしのお題で参加したときのことだ。参加全員分にコメントを書く際、わたしはその人にも書いた。だが、わたしはその文章内の世界に浸ることができていなかったし、それ故に、自分がもらったことのあるような指摘(間の取り方の技巧)うんぬんより手前のことしか、書けそうになかった。

 けっきょく、無難なことを短く書くことにしたが、その最後で、うっかりとした。「つかみ」というか「ぐいっと読ませる」表現が最初か前半にあっても、よかったかもといった文章だ。具体的にどう書いたかは忘れてしまったが、これぞ蛇足だった。
 コメントをじゅうぶんに書けるほどにはその世界をよく理解していないならば、どれほどそれが味気なくとも、挨拶のコメントをしたら、あとは正直に「自分には理解できていない部分があると思う」と書けばよかった。それだけでよかったのだ。

 そして「今回のお題で、おもしろいこと書けと言われていない」と返答コメントがあった。

 傷ついたのだろう。いまならわかる。
 わたしは文章のプロではないが、そのお題の企画に最初から参加していたことや、その場所に長く存在して知名度があった。その人にとっては、わたしからそんな風に書かれてショックだった可能性はじゅうぶんある。

 だが、それはいまにして感じることだ。

 自分でのんびり書きたいだけではなく人と集まる場所でお題に参加したのだから、人が読んで楽しいかどうかを気にするのは、お題に定義されていなくても普通なのではと、わたしはそのとき考え、返答のコメントに唖然としてしまったのだ。もう少しで、怒りそうになっていた。

 だがやりとりを重ねれば、喧嘩になってしまい双方の傷がひろがる。そこでもやもやしつつも、書かずにすませた。

 感想ということで何か書くにも、プロの作家の作品に「あれはつまらなかった」と公の場で書くのと、一般の人に「ここをこうすれば、もっとおもしろい」と書くのでは、意味がまったく異なるはずだ。

 伝え合うべきことは、場所やタイミングを選んで、言葉は最小限でも気持ちを最大限にこめることができれば摩擦は少ないだろうと、いまならそう思う。

 
(半日ほど前からこのnote上で見聞きした話に触発され、昔のことを書いてみた次第)


 
 

家にいることの多い人間ですが、ちょっとしたことでも手を抜かず、現地を見たり、取材のようなことをしたいと思っています。よろしくお願いします。