【SS】蛍と煙

 あ、蛍。

 日が沈みきっていない藍色の世界。
 職場から自転車を漕いで帰ってきて、マンションの裏側の自転車置き場にそれをしまおうとして、そう言えば、洗濯物、しまってくれたかなと見上げた時だった。

 オレンジ色の点のような光が、夕方と夜の狭間を縫うように存在を示していた。
 フラフラとしたような、それでいて直線的な動きをするその光がやたらと印象的に陽の目に映った。いつまでも見ていられそうな、儚い美しさがそこにはあった。

 自分の家のベランダに、季節外れの? そうじゃなくてもこんな街中にいるはずはない、と目を凝らすと、人影があるのが分かった。
 いるのだとしたら、一緒に暮らしている恋人の美佳なのだろうけれど、その見慣れない光景に思わずなんだろうと目を細めて足を止める。
 すると、彼女はこちらに気づいたのか、おーい、という聞き慣れた声がして、手が振られる。
 蛍がゆらめいていた。

 そこで、あぁ、と納得した。
 それはタバコだった。

***

「怒ってるの?」
「怒ってるっていうか……」
「違うんだよ、職場の仲良い人がさ、禁煙だ〜っていうからもらってきて」

 聞いているくせに、こちらの返答を待たないその性急さに小さく嘆息をする。
 後ろから抱きしめるように喋ってくるからか、嗅ぎ慣れないおそらくタバコであろう匂いがして不快だと、ぐ、とその身体を押すと、ごめんって〜、と眉を八の字に寄せて情けない顔をする。

 タバコだ、と思った瞬間、身体の中に直接手を入れて掻き回されたようなざらりとした感覚が走った。
 いつもだったら、そこから一分とかからないで、家のドアまで行けるのに、うまく頭の整理がつかず十分もかかってしまった。
 ショックだった。でも、何がショックなのかも分からない。

「それで?」
「あー、そう言えば、久しぶりだな、って思って。吸った」
 それだけ、と言って美佳は手を合わせて、また怒ってる? と上目遣いで聞いてきた。
 沈黙が二人の間に、こだまのように反響する。
 ソファーに座って身じろぎをすると、その衣擦れの音すら妙に耳についた。
 外の世界は、もう藍色ではなく黒色の夜になっていて、それとは反対ばかりにこの部屋は煌々と明るくてさっきの光景とうまく結びつかない。
 手のひらに汗が滲むのを感じた。
 うまく言語化できない。タバコを吸うのは自由だ。でも、付き合ってから吸っているのを見たことがないし、昔吸っていたという話を聞いたこともなかった。
 同棲する時も何もいったことがなかったし、そんなそぶりも見せなかった。
 初めてという割には、妙にこなれた仕草で、吸い慣れているようで、言ってみれば長年一緒にいる恋人の知らない一面だった。

「怒って、ない……」
「そうなの?」
 押した分だけ戻らない距離を、自分から遠ざけたのに、少し寂しく思う。
「昔、吸ってたの?」

 あぁ、と後頭部を掻いた。居心地悪い時の彼女の癖だった。
「そう、なんか色々うまくいかない時にね」
「私が見てないところで吸ってた?」
「吸ってないよ。正真正銘、陽と付き合ってからは今日が初めて。出来心っていうのかな。ちょっと今日は色々仕事が上手くいかなくって、吸ってた時のこと思い出したっていうか」
 普段、弱音を外に出さない彼女がいうのだから相当ストレスが溜まっていたのだろう。そう思うと、上手く言葉が出なかった。
「そっか」
「タバコ、嫌い?」
「……あんまり、好きじゃない」

 実家の家族の中では誰も吸わなかったし、その習慣はない。匂いも気になるし、たまに一緒に飲む人が吸っていると、つい顔を顰めてしまう。
 喫茶店でも禁煙と喫煙を選べるのなら迷わず禁煙の席を選んでいたから、どちらかといえば嫌煙なのだろう。あまり意識をしたことはないが。
「でも、あの光は綺麗だって思ったし、」
 は、と煙を吐く時の、あの脱力して星をぼんやりと眺めている表情。あんな表情見たことはなかった。
 蛍みたいに、ゆらゆらと舞うようなその頼りなげな光。あの、光景が妙に目に焼き付いている。

「じゃあ、もう、あれは捨てる」
「え」
「陽が嫌だっていうなら、私もしたくないもん。元々、そこまで執着してたわけじゃないし」
 だから、この話は終わり、とばかりに場違いなほどに明るい声がその唇から出た。

「ちょっと待ってよ」
 タバコの箱とライターを掴んで立ち上がったその服の裾を咄嗟に掴んだ。
「私が言ったからって、捨てるわけ? 吸いたかったんじゃないの?」
「違うよ。私が嫌だから。もう吸わない。そんな顔させたくないし」

 どんな顔をしているというのだ。言われてハッとしたが、うまく繕えなかった。
「……勿体無いじゃん」
 まだ箱にはそのほとんどが残っている。
「そんなの、いいよ」
 主張を全て均等に慣らして仕舞えば、美佳にタバコを吸って欲しくないのはその通りだ。でも、このまま終わらせたら、何も知らないままに遠ざけたら、多分、違うだろう。何かしこりのようなものが残りそうだと、陽は立ち上がった。

「ベランダ、いこ」

***

「火、点かない……」
「吸わないとダメだよ。やめときな」
「今更、」
 一回でどうこうってもんでもないでしょう、と言って、息を吸ってライターを近づけてもらうと、喉の奥が煙で満たされて、ざらりとしたやすりで撫でられた感覚に襲われたようで思わず咽せる。
「あー、もう」
「何これ、」
 肺の中の空気を全て吐き出すように肩を上下させて咳をした。背中を撫でてもらって、それはようやく落ち着いた。何もおいしくないし、心が落ち着くと聞いたことがあるが、そんなことは全然ない。身体が全身でそれを拒否している。
 ひゅーひゅーと鳴る喉に、そういえば小児喘息だったことを思い出す。
 持っていたタバコは、いつの間にか取り上げられて簡易的な灰皿で押しつぶされていた。
「陽には似合わないね」
 そう言って手慣れた仕草で火をつけて、煙を吐く様子に、なんだか悔しくなったけれど、その大人びたさっきまで知らなかった横顔を間近に見てまあいいか、とさっき毛羽立っていた気持ちは、喉の奥の状態とは裏腹にいつの間にか凪いでいた。
 そこで、あぁ、自分は相当に欲張りなんだな、唐突に理解して、陽は小さく笑った。
「知らないことばっかりだな、」
「え、」
「もう何年も一緒に住んでいるのに」
 同棲して、もうすぐ二回目の更新料の支払いが待っている。今回は特に大きな話し合いもなく、支払うことが決まっていた。
「そりゃあ、一緒にいる時間って意外と短いもん」
「長いと思ってた」
「きっと、掘ればまだまだ出てくるよ」
 嗅ぎ慣れない彼女ではない匂いに、でも、もうこんな匂いも彼女のものなんだな、とそっと身を寄せて、その蛍と煙の行先を見ていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?